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中川紫郎 : ウィキペディア日本語版
中川紫郎[なかがわ しろう]

中川 紫郎(なかがわ しろう、明治25年(1892年11月25日 - 昭和33年(1958年11月13日)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサーである。帝国キネマ創立期の大監督であり〔キネマ旬報社, p.279-280(執筆奥田久司).〕、独立後は奈良に撮影所を開き、牧野省三直木三十五実川延松阪東妻三郎志波西果らと共闘し、自社製作のほか、同撮影所を「貸しスタジオ」として経営した。本名中川 四平(なかがわ しへい)。
== 来歴 ==

=== 帝国キネマの大監督として ===
1892年(明治25年)11月25日岡山県川上郡東成羽村(現在の高梁市成羽町)に生まれる。戦国時代武将中川清秀の子孫であり、父・増治郎は川上郡落合村の村長、川上郡の郡長を歴任した。旧制・岡山県立高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)を卒業、旧制第六高等学校(現在の岡山大学)に進学、在学中に同校「北寮」の寮歌を作詞した〔〔『日本映画監督全集』の記述に「在学中に六高北寮の歌を作詞した」とあるが、Wikipedia「寮歌の一覧#旧制第六高等学校の歌」には作詞者は「吉原一雄」とある。〕。
その後大阪に出て、大阪歌舞伎嵐璃徳の座付作家となる。1920年(大正9年)5月、「帝国キネマ演芸」(帝キネ)が設立されると嵐一座とともに同社小阪撮影所に入社する。脚本係から監督部へ転身、同年、嵐一座が出演した『大江山酒呑童子』で映画監督としてデビュー、同作は同年10月8日に公開された。以降、嵐の主演作のほとんどを監督して量産、128本目の監督作『愛の扉』では、小田照葉(高岡智照尼)を主演に据え、「純映画劇」と銘打って1923年(大正12年)に公開、成功を収める。同作は、以降の帝キネの映画の流れを変えたとされる〔。
中川の帝キネ時代の功績は、小説の映画化にいち早く取り組み、谷崎潤一郎の『お艶殺し』を最初に映画化し(『おつやと新助』、1922年)、岡本綺堂の『修善寺物語』や『鳥辺山心中』(いずれも1923年)も初めて映画化したことである。また、新人俳優市川百々之助をスターにし、広瀬五郎森本登良男らを映画監督として一本立ちさせたことであった〔。当時監督志望の俳優山本嘉次郎などの面倒もよくみたが、フンドシ1本でロケ先を歩き、巡査に咎められることもあったという類の奇行の人であった〔山本, p..〕。
同社に入社以来わずか4年で200本近くの映画を撮り、30歳前後の年齢ですでに「大監督」と呼ばれるまでになった中川は、1924年(大正13年)、マキノ映画製作所出身の長尾史録監督作『清姫の恋』、森本登良男監督の監督第2作『人魚の精』のプロデュースをしたのちの同年7月、同2作の公開も待たずに帝キネを突然退社、渡米した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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