翻訳と辞書
Words near each other
・ 中川隆 (野球)
・ 中川隆治
・ 中川雄一郎
・ 中川雄二
・ 中川雄哉
・ 中川雄貴
・ 中川雅之
・ 中川雅治
・ 中川静子
・ 中川順
中川順夫
・ 中川順子
・ 中川順節
・ 中川駅
・ 中川駅 (千葉県)
・ 中川駅 (富山県)
・ 中川駅 (山形県)
・ 中川駅 (神奈川県)
・ 中川高等学校
・ 中川龍一


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

中川順夫 : ウィキペディア日本語版
中川順夫[なかがわ のりお]

中川 順夫(なかがわ のりお、1909年9月5日 - 没年不詳)は、日本の映画監督脚本家である。伊世 亜夫の筆名も持つ。
== 人物・来歴 ==
1909年(明治41年)9月5日大阪府に生まれる〔『日本映画監督全集』、キネマ旬報社、1976年、p.280.〕。
1926年(大正15年)、旧制・大阪府立今宮職工学校(現在の大阪府立今宮工科高等学校)を卒業〔、1930年(昭和5年)、新興キネマ演出部に入社した〔。1934年(昭和9年)、田坂具隆監督の『月よりの使者』に助監督としてついた後に、脚本部に異動した〔。1939年(昭和14年)、須山真砂樹監督の『泣き笑ひの天国』で脚本家としてデビューした〔#外部リンク欄、「中川順夫」リンク先、日本映画データベース、2009年10月21日閲覧。二重リンクを省く。〕。
その後、読売新聞社映画部、日本映画社に移籍し、ドキュメンタリー映画の製作に携わる〔。1940年(昭和15年)、『オモチャの科学』で監督としてデビューした〔。電通映画社亀井文夫の脚本を得て、数本監督する〔フィルムは記録する'97:日本の文化・記録映画作家たち 東京国立近代美術館フィルムセンター、2009年10月21日閲覧。〕。
第二次世界大戦後は、インディペンデント系のプロダクションで製作された『ひょっとこ飛脚』で劇映画の監督としてデビューした〔。同作は松竹が配給し、1949年(昭和24年)に公開された〔。
1955年(昭和30年)、宝塚映画製作、東宝配給作品の脚本を数本書く〔。
1958年(昭和33年)、日米映画日本テレビと共同で製作した48分の中篇映画『群衆の中の殺人』を監督し、同年6月29日に新東宝が配給して劇場公開された〔が、同作は、同年9月13日に日本テレビでテレビ映画として放映されている〔テレビドラマデータベース 、「中川順夫」検索結果、2009年10月21日閲覧。〕。原初的なメディアミックスの例となった。同年以降、テレビ映画に進出し、1965年(昭和40年)まで多くのテレビ映画を手がけた。
1960年(昭和35年)10月12日、フジテレビのシリーズ『東京タワーは知っている』の一篇『銀座の赤ん坊』の撮影中に、「カミナリ族」を演じるスタントに一般の「カミナリ族」が競り合い、4人の負傷者を出す事故がおきる〔昭和ラプソディ 昭和35年・下 、「誰か昭和を想わざる」、2009年10月21日閲覧。〕。同作は、翌1961年(昭和36年)1月13日に放映された〔。
1962年(昭和37年)初頭、第一プロダクション製作、大宝配給の劇場用映画『波止場で悪魔が笑うとき』を監督する〔発掘!幻の大宝映画 、''nipponeiga.com'', 2009年10月21日閲覧。〕。同作は、『キネマ旬報』誌の1962年3月下旬号の記述〔〔波止場で悪魔が笑うとき 、''kinejun.jp'', 2009年10月21日閲覧。〕によって、中川信夫作品とされがちであったが、2009年(平成21年)に16ミリプリントとポスター、初稿の印刷台本が発見され、「中川順夫作品」であることが明らかになった〔。
1968年(昭和43年)からはピンク映画にも進出し、自らの製作会社中川プロダクションで数本製作した〔。伊世 亜夫の別名で監督した作品もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中川順夫」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.