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中田 賢一(なかた けんいち、1982年5月11日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。妻はフリーアナウンサーの角野友紀。 == 経歴 == === プロ入り前 === 北九州市立永犬丸小学校では3年生から父親がコーチ・監督を務めるチーム(永犬丸レッドライオンズ)でソフトボールを始めた〔〔中田、父子ロードで早朝ラン 故郷で原点回帰 2007年12月22日中日スポーツ〕。北九州市立沖田中学校では硬式野球の上津役ロビンスに所属し本格的に野球を始めた〔。 高校は地元の進学校福岡県立八幡高等学校へ進学した。0時間目からの授業や夏休みの補習等、進学校特有の授業構成の中勉強との両立に苦しみながら練習を積んだ。三塁手兼控え投手だったが、2年秋からエースとなった〔。3年春は県北部大会8強、夏は県大会3回戦敗退と甲子園出場は叶わず無名のままだった〔。高校3年時での速球の最高球速は130km/h台後半だった〔竜2巡目・中田、一場に負けない 2004年11月22日中日スポーツ〕。 大学は公立の北九州市立大学へ進学した。野球の練習時間を確保するため経済学部経済学科・夜間コースに在籍し、昼間に練習して午後6時から講義を受ける毎日だった〔2巡目・中田、魅せるぞ賢投 頭脳派狙うはローテ 2004年11月20日中日スポーツ〕。大学2年時より頭角をあらわし、2年春秋にリーグの連続ベストナインを獲得した〔。無名公立校の快腕としてプロや米大リーグのスカウトから注目を浴びるようになった。3年時には球速も150km/hをマーク。9月に内転筋を痛めたのをきっかけに、後にマンツーマンで肉体改造を行う新日本製鐵八幡硬式野球部のトレーナーだった宗廣誠一と出会った〔2巡目・筋肉マン中田、1月完成 自主トレまでに疲れにくい体に改造だ! 2004年11月29日中日スポーツ〕。 ; 大学4年時は九州六大学春季リーグにおいて母校を39年ぶりに優勝に導き、全日本大学選手権大会出場を果たした。3チームによる優勝決定戦で1日で2試合を完投した。第1試合では9回を完投し勝利、わずか45分の休憩後、第2試合も延長11回を完投しサヨナラ勝ちし、1日で2試合20イニング310球を投げ抜き、リーグ制覇を決めた〔中田の2試合完投で北九大がV/九6 2004年5月30日 日刊スポーツ九州〕。このとき両親から渡されたお手製のお守りをポケットに入れてマウンドに立っていたという。また最多勝、特別賞(リーグ通算300奪三振)、ベストナイン、MVPを獲得した〔。 全日本大学選手権大会では創価大に勝利し、神宮初勝利をあげた〔中田が歴史刻んだ!北九大1勝 2004年6月11日 日刊スポーツ九州〕〔第53回全日本大学選手権 北九州市大が初勝利 〕。また同年は日米大学野球選手権大会日本代表にも選出された。秋季リーグ戦では久留米大相手にノーヒットノーランを達成した〔北九大中田が中日を「逆指名」 2004年10月28日 日刊スポーツ九州〕〔北九大、中田が無安打無得点/九州6大学 2004年9月27日 日刊スポーツ九州〕。10月中旬に部員の不祥事発覚により、ユニバーシアード記念九州大学野球選手権大会には出場できなかった〔。 11月17日にドラフト会議で、中日ドラゴンズから2巡目に指名されてプロ入りを果たした〔中田が川上に弟子入り志願 開幕1軍、先発ローテ、連覇貢献へ強気宣言 2004年11月18日中日スポーツ〕。北九州市立大学から初めて直接プロ入りした選手(北九州市立大出身のプロ野球選手は森山良二以来二人目)。本人も中日以外の指名時は社会人へ進むことを明言しており、相思相愛の入団となった〔北九州大・中田も竜でプロ 他球団指名なら社会人入り 2004年11月17日中日スポーツ〕。中日入団に際して、杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄ら中日の歴代エースが背負った伝統の背番号20番を引き継いでいる(前シーズンまで着けていた川崎憲次郎が引退して空き番号となっていた)〔背番号20!エース新伝説 中田が中日入団発表 2004年12月25日中日スポーツ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中田賢一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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