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中臣習宜阿曾麻呂[なかとみのすげ の あそまろ] 中臣習宜 阿曾麻呂(なかとみのすげ の あそまろ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。氏は単に習宜とも記される。官位は従五位下・大隈守。 == 経歴 == 中臣習宜氏は物部氏の一族で、饒速日命の孫にあたる味饒田命の後裔とする天孫系氏族〔『新撰姓氏録』左京神別〕。習宜の名は大和国添上郡習宜の地名に由来する〔太田3054 〕。元は連姓であったが、養老3年(719年)に朝臣姓に改姓している〔『続日本紀』養老3年5月15日条〕。 天平神護元年(765年)6月に正六位上から従五位下に叙爵。同年9月に豊前介に任ぜられる。神護景雲3年(768年)9月大宰主神を務めていた際、宇佐八幡宮の神託であるとして、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になると称徳天皇に奏上する〔『続日本紀』神護景雲3年9月25日条〕が、和気清麻呂がこれを阻止する(宇佐八幡宮神託事件)。神護景雲4年(769年)に道鏡が失脚すると、阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷された〔『続日本紀』神護景雲4年8月21日条〕。宝亀3年(772年)3月に大隈守に任ぜられるが、その後の消息は不明。
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