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中華人民共和国法(ちゅうかじんみんきょうわこくほう)は、中華人民共和国の法制度を概観する項目である。一般には中国法ということが多い。同国は、社会主義法系の中国本土、英米法系の香港、大陸法系でポルトガル法の影響の強いマカオ、大陸法系で日本法の影響の強い(中華民国政府の実効支配地域である)台湾という、複数の法域に分かれているが、本稿では、中国本土の法制度を中心に取り扱う。 ==法の発展== === 前史 === 中国での法制度の起原は定かでないが、春秋戦国時代には、鄭や晋で「刑書」や「刑鼎」が制定されたとされてる〔小口彦太『伝統中国の法制度』10頁 成文堂 2012年 ISBN-10: 4792332958〕。魏の李克が「法経」を編纂し、秦の商鞅が律に改称したと伝わる。漢においても秦法が継受されたが、蕭何によって、9章からなる律が編纂され、これとは別に3編の令がまとめられた〔小口2012 11頁〕。これが律令の起こりである。西晋の武帝により、律は刑罰法典、令は行政法典という範疇的分化が確立し、律・令を補充する法として、「故事」が制定された〔小口2012 12頁〕。この故事は後に格式となり、律令格式の体系が整い、隋・唐に継受されていく。格は当初律令の修正を担ったが、唐の開元25年以降は、律令格式の編纂は行われなくなり、格もが固定化するようになる〔小口2012 14頁〕。そして既存の法典を修正するために、「格後勅」が別途制定されるようになり、五代時代には「編勅」に姿を変える。 宋においては、神宗まで唐以来の律令格式や編勅が主要法典とされていたが、元豊期を境に、「勅令格式」へと姿を変える。勅は刑罰法典を、令は教令的法典を、格は賞格・服式、式は書式に意味を変え、律の適用は勅に規定のない場合に限定されるようになる〔小口2012 14-15頁〕。 元に入ると、勅令格式の法典は放棄され、唐代風の法典編参が試みられるようになるが、挫折し、行政法典たる「条格」と刑罰法典たる「断令」に収斂していく。条格・断令は律令のような法命題ではなく、個別具体的事例に即した判例法の性質を有した〔小口2012 15頁〕。 異民族王朝である元を倒した明は、復古主義的態度を取り、律令法典の形式の復活を意図したが、編目や刑事法の基本を「条例」が担った点などで、元代の影響を強く受けた。明代の法典は基本的には清に受け継がれていくことになる。 清代においても明代同様、国家法は専ら公法分野に限られた。最も行政法分野に関して唐令のような法典の編纂作業が行われることはなく、行政組織法たる「会典」、行政機関ごとの先例をまとめた「会典事例」、新たに発生した先例を行政機関ごとにまとめた「則例」などの書物にまとめる形式を採った。刑事法は明代に引き続き「律」と「条例」が主要な法典をなし、後者が前者を補充する関係に立ち、修正は臣下が上奏し、皇帝が裁可する形で行われた。皇帝の意思表示は「論」「旨」「奏准」「題准」などの形式で行われ、このうち将来効を有するものを「通行」と称した。この他、法源として過去の事例(成案)や大清律輯註などの注釈書も参照された〔小口2012 16-19頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中華人民共和国法」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Law of the People's Republic of China 」があります。 スポンサード リンク
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