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中華民国(ちゅうかみんこく)は、東アジアに位置する民主共和制国家。 アジアで2番目の共和国として〔アジア初の共和国はフィリピン第一共和国であるという意見もあるが、当時フィリピンはスペインの植民地支配からアメリカの植民地支配下への移行期間にあり、アメリカの支配下にあったため異論がある〕1912年に中国大陸に成立し、1971年まで国際連合安全保障理事会常任理事国であった。国共内戦が終結した1949年以降は台湾島と周辺の島嶼群などを実効支配している。日本やフィリピン、中華人民共和国などと領海を接する。 議会制民主主義国であるものの、中華人民共和国の中国共産党政権と対立していることにより、中華民国を正式に国家として承認している国は多くはないが、以前国交を結んでいた国々を中心に、多くの国と国交に準じた関係を結んでいる。日本のメディアでは専ら台湾と表記される。 == 概要 == 1912年1月1日に、革命家の孫文を臨時大総統(臨時大統領)として、中国大陸を中心とする中国を代表する国家として成立した。 同年2月12日には、清朝の皇帝である愛新覚羅溥儀が退位することによって、その後袁世凱が大総統(大統領)に就任した。その後、袁世凱と対立した孫文は1919年に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州に樹立したものの、1925年に死去した。 1924年には中国共産党との間で第一次国共合作を行ったが、1927年南京事件が起こったことで同年4月に国共合作を解消すると、孫文の後継者となった蒋介石の指揮下で上海や武漢などの各地方で中国共産党員を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。その後国民政府は蒋介石の南京国民政府と、これに反対する汪兆銘らの「武漢国民政府」に分裂するが、間もなく両者は合流、北方軍閥の張作霖が日本軍によって爆殺された後、張作霖の息子の張学良が蒋介石の傘下に入る。 その後、満洲事変を契機に大日本帝国(日本)の後援により、愛新覚羅溥儀を執政として東北部に満洲国が設立され、さらに1937年に起きた盧溝橋事件を契機として、中華民国は日本との全面戦争状態に入った(なお宣戦布告はどちらからも為されていない)。これに対抗して日本軍は、国民党の反蒋介石派であった汪兆銘を首班とした新たな国民政府(汪兆銘政権)を樹立する。その後、1941年12月に日本とイギリス・アメリカ合衆国などとの間で戦争が始まり、英米と友好関係にある中華民国は連合国の主要国として枢軸国と対峙した。 1945年9月2日の降伏文書調印により、中華民国は第二次世界大戦での勝利が決定した。そして、主要戦勝国の1国として国際連合の設立メンバーとなり、GHQからの委託に基づき、1945年10月15日に台湾に進駐した。1945年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督・第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は光復式典を行って台湾の実効支配を開始した。日本が台湾などを中華民国へ返還することは1943年12月1日のカイロ宣言に謳われているが(ただし、この宣言に有効性はないとする説もある)、この時点では行政権を中華民国に移譲しただけであり、国際法上、台湾島地域は依然として日本の領土であった。台湾光復後の1947年2月28日に二・二八事件が発生した。 しかしアメリカ合衆国政府が支援する中国国民党と、ソビエト連邦政府が支援する中国共産党との間の内戦において、ヨーロッパにおけるソビエト連邦との間の冷戦や朝鮮半島での緊張に気を取られたアメリカ政府による支援が減ったことなどにより、1949年初めには中華民国の実効支配地域が縮小し、1949年10月1日には中国共産党が中華人民共和国を樹立した。 この1949年の12月7日、蒋介石総統率いる中国国民党政府が、首都を中国共産党に実効支配された南京から、臨時首都として台湾島の台北に移転したことにより、台湾島地域および金馬地区などのみを実効支配する国家として、1950年までに再編成された。同時に戒厳体制が発布された(党国体制)。 日本は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において、台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄したが、それらの帰属先が明言されていないため、台湾島地域の国際法上の領有権は「未確定である」という見方(台湾地位未定論)がある。 冷戦下の1971年に、中ソ対立の文脈の中で、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国と、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との間で政治的駆け引きが行われた結果、国際連合における「中国代表権」が、国際連合総会決議2758によって中華人民共和国に移され、中華民国は国連とその関連機関から脱退した。さらに、1972年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が北京を訪問し、中華人民共和国を承認する意向を見せると、アメリカの影響下にある多数の西側国家がこれに同調し、日本は中華人民共和国を承認し中華民国と断交。その後1979年にアメリカが最終的に中華人民共和国を「中国の代表権を有する正統政府」として承認した。 美麗島事件をきっかけに、1987年に蒋介石の息子で総統職を世襲した蒋経国が戒厳を解除。続いて李登輝政権下の1996年に、国民党一党独裁(党国体制)による寡頭共和制は終わり、複数政党制と大統領制を主体とした民主共和制に変わった(総統民選期の中華民国)。その経済や貿易規模も大きいことなどから、日本やアメリカ、イギリスやフランスなどをはじめとする主要国とは国交こそないものの、形式上非政府組織の窓口機関を通じて外交業務を行っているため、事実上の国交があると言える状態にある。世界貿易機関 (WTO) のように、主権国家ではなく、領域を代表するものとして中華民国政府の加盟を認めた国連機関もある。 21世紀初頭では、大統領制の議会制民主主義を主体とした民主共和制国家として、台湾海峡を挟んで中国大陸と接している台湾島・澎湖諸島(台湾省・台湾地区)および福建省沿岸の金門島・馬祖島(金馬地区)、南シナ海の東沙諸島および南沙諸島の太平島を実効支配している。 アメリカは、第二次世界大戦勃発以来、中華民国と事実上の同盟関係にあり、中華民国が軍事的脅威にさらされた(台湾海峡危機)場合は、台湾関係法に基づき、適切な行動を取ることとなっている。実際に、1996年に行われた総統選挙に伴い、中華人民共和国の人民解放軍(中国共産党軍)が、選挙への恫喝として軍事演習を強行し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為「第三次台湾海峡危機」が起きた際には、アメリカ軍はこれに対して台湾海峡に空母打撃群を派遣し、同国のウォーレン・クリストファー国務長官は「アメリカは必要な場合には、台湾を助けるために台湾に近づく」と中華人民共和国に対して警告した。 2008年3月に行われた総統選挙の際も、台湾近海に空母2隻を派遣した。その総統選挙で当選した馬英九は、2010年に大陸との間で両岸経済協力枠組協議という自由貿易協定を締結、事実上の経済同盟を発足させるなど、2010年代からは中台関係は回復する方向に進んでいる。2014年3月18日から4月10日にかけて、中華人民共和国とのサービス貿易協定の署名を阻むために、学生と市民の一部は、日本の国会に当たる立法院を占拠した。この時点は「ヒマワリ運動(太陽花運動)」という、中華民国の社会運動への端緒にも当たる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中華民国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Taiwan 」があります。 スポンサード リンク
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