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中観派(ちゅうがんは、, Mādhyamika, マーディヤミカ、中派〔中村元『龍樹』 講談社学術文庫、2005年 p.250〕)は、インド大乗仏教哲学において、瑜伽行派(唯識派)と並ぶ2大潮流であり、龍樹(りゅうじゅ、Nāgārjuna, ナーガールジュナ、150年 - 250年頃)『中論』の著作によって創始された、「中観」(Madhyamaka, マディヤマカ、中・中道〔)という立場を奉じる学派のこと。 == 教理 == ===新しい「縁起」と「中観」=== 中観派の教理は、般若経の影響を受けたものであり、その根幹は、「縁起」「無自性(空)」である。 この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。 こうした理解によって初めて、『中論』の冒頭で掲げられる「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の意味も、難解とされる『中論』の内容も (そしてまた、それを継承しつつ成立した『善勇猛般若経』のような後期般若経典や、大乗仏教全体に広まった「無分別」の概念なども)、適切に理解できるようになる。 上記したように、二項対立する現象・概念は、相互に依存・限定し合うことで、支え合うことで、相対的に成立しているだけの、「幻影」のごときものに過ぎず、自立的なものではないので、そのどちらか一方を信じ込み、それに執着・傾斜してしまうと、必ず誤謬に陥ってしまうことになる。 そのことを示しつつ、上記の「八不」のごとき、(常見・断見のような)両極の偏った見解(二辺)のいずれか一方に陥らず、「中」(中道・中観、Madhyamaka, マディヤマカ)の立場を獲得・護持することを賞揚するのが、『中論』及び中観派の本義である。 この「無自性(空)」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中観派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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