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中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年〔衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、30頁。〕 - 1954年)は、日本の実業家、映画製作者、弁護士、政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫。 == 来歴・人物 == 1887年(明治20年)、高知県に生まれる。 上京し、東京帝国大学法学部独法科を卒業した。内務省に入省し、広島県警察、東京警視廳(現在の警視庁)勤務を経て、弁護士となった。 明治漁業取締役、露領水産組合副会長を務め、1907年(明治40年)に締結された日露漁業協約の1918年(大正7年)の改定に向けての会議では、漁業者代表最高顧問としてロシア・モスクワへ派遣された。 1912年(大正元年)9月10日に設立された映画会社・日本活動写真(日活)の取締役に就任する。 43歳になる1920年(大正9年)5月10日、高知県の選挙区で憲政会から衆議院議員に立候補するも落選、1924年(大正13年)5月10日の同選挙で当選した。1928年(昭和3年)2月20日の衆議院議員選挙からは立憲政友会から立候補し、当選している。同一選挙区に浜口雄幸がいた。以降、1936年(昭和11年)2月20日の選挙で落選するまで、連続4期でつとめた。 1932年(昭和7年)8月、当時日活の専務取締役だった中谷は、日活太秦撮影所の名物所長・池永浩久を初めとする約200名を解雇、自らが同撮影所長を兼務した。1934年(昭和9年)に日活社長に就任。東京都調布市多摩川の日本映画株式会社撮影所を買収、「日活多摩川撮影所」とし、現代劇部を京都から移転した。当初、中谷が所長を兼務したが、のちに根岸寛一に交代した。また同年、日活京都撮影所製作部長だった永田雅一が中谷と衝突し、永田は日活を退社、第一映画を設立している〔立命館大学公式サイト内の水口薫の論文「アート・リサーチセンター 1999年度秋季連続講演会 第3回「京都の映画の昔と今」 」の記述を参照。〕。この騒動の責任を取って、のちに日活社長を辞任している。以後の日活はライバルの松竹と東宝の争覇上に置かれる、隷属会社的存在となる。 1954年(昭和29年)、68歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中谷貞頼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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