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中越戦争 : ウィキペディア日本語版
中越戦争[ちゅうえつせんそう]

中越戦争(ちゅうえつせんそう、、)は、中華人民共和国ベトナム社会主義共和国の間で1979年に行われた戦争
大量虐殺を行ったカンボジアポル・ポト政権はベトナムの侵攻で崩壊。カンボジアを支援していた中国はこれに対して、ベトナムへの「懲罰行為」と称した軍事侵攻を開始。敵主力の留守を突く形で侵攻した中国軍は、大きく優越する戦力で守備隊を圧倒しようとした。しかしベトナム戦争で実戦経験を積み、装備にも優れたベトナム軍相手に、中国軍は多大な損害を出して1か月足らずで撤退する。
== 概要 ==

ベトナム戦争1965年 - 1975年)終結直前、ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノルの親米軍事政権が倒れ、1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、民主カンプチアの成立を宣言した。しかし間も無く大量虐殺を伴う恐怖政治を行うようになった。
ほぼ同時期に成立した統一ベトナムは、実質上北ベトナム南ベトナムを併呑したものであり、そのベトナムは隣国ラオスとも軍事同盟を結んでベトナム軍を駐留させた。一連の行為はカンボジアから見れば、北ベトナムが着々とインドシナ全域へ支配領域を広げているかのように解釈され、次はカンボジアが併呑される強い危機感があった。またフランス支配以前の両国はメコンデルタの領有権を争っており、旧来からの因縁があった。結果、両国間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。
ベトナムはカンボジアから亡命していたクメール・ルージュの軍司令官ヘン・サムリンたちを支援するという形でカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナムのカンボジア政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。カンボジア側からすれば、ベトナムがインドシナの覇権を握る野望を持っているという危惧が、現実のものとなったのである。一方、当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジア領内のベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、小規模だが繰り返されるベトナムへの侵攻・挑発は看過できないことであった。
ポル・ポト政権には中国が後ろ盾となっていた。またベトナムが中国の反ソ政策に同調しない態度だった事に対応し、当時、ソ連への敵意が強かった中国の鄧小平華国鋒はベトナムをソ連の手先と見なし開戦を決断した。中国にしてみれば、ベトナム戦争で中国の支援を受けたベトナム政府が親ソ連となり、中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、「恩を忘れた裏切り行為」であった。また、統一ベトナム成立後の社会主義化政策は旧南ベトナム地域の経済を握っていた華僑資本家層を圧迫しており、民族主義的反発も要因の一つだった。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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