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中野 信陽(なかの しんよう、1856年(安政2年)2月4日(12月28日)〔『海軍兵学校出身者戦死者芳影録』15頁〕 - 1895年(明治28年)2月11日)は、日本の海軍軍人。日清戦争で戦死した海軍大尉である。 == 生涯 == 佐賀藩士。旧姓は副島。戊辰戦争における今市の戦いで討死した中野次郎助の後嗣。神奈川県知事などを務めた中野健明は義理の伯父にあたる。 攻玉社に学び、海兵士官学校へ進むが在校中に廃校となり、速成教育を受け卒業。酒井忠利、武富邦鼎らが同期生である〔『海軍七十年史談』pp,250-251〕。1877年(明治10年)2月海軍少尉補。同時に運用、砲術などを学ぶため海軍兵学校への通学を命じられた。1879年(明治12年)9月、海軍少尉。「鳳翔」、「富士山」、「浅間」乗組みとして測量、砲術などの実務を学ぶ。1883年(明治16年)11月、中尉へ進級した。「龍驤」分隊長を経て、再度海兵通学を命じられ、在校中の1886年(明治19年)7月、大尉へ進級。12月に海兵の卒業証書を授与された〔『死者略伝 巻9』〕。同時に卒業証書を授与された大尉は3名おり、少尉として授与されたのが石橋甫、八代六郎、名和又八郎、伊地知彦次郎などである〔『海軍兵学校沿革』「明治19年12月23日」〕。 「清輝」及び「葛城」各分隊長を経て、海軍大学校甲号学生2期を卒業。甲号学生はのちの甲種学生に相当するもので、同期にのちの「信濃丸」艦長・成川揆がいる。海兵の卒業クラスがない海大卒業生は、中野と海兵士官学校同期生・真崎宏治の2名のみである〔『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』「海軍大学校卒業者名簿」〕。 中野は砲術長適任詔書を授与された。 海兵教官、同監事などを務め「金剛」砲術長として斎藤七五郎ら海兵20期〔『海軍兵学校物語』p.235〕の練習航海に参加。1894年(明治27年)6月にハワイへ入港し、日清戦争の開戦を迎えた。「金剛」は同地で在留邦人保護の任を果たして8月に日本へ戻り、西海艦隊旗艦となる。中野は同年11月に「天龍」副長に転じた。清国北洋艦隊は黄海海戦などで打撃を受けたが、威海衛を基地に抗戦を続けていた。連合艦隊は陸上砲台や残艦の攻撃を図り、「天龍」は第三遊撃隊の先導艦として威海衛攻撃に向かった。しかし劉公島砲台からの反撃を受け「天龍」は被弾。中野は戦死した。北洋提督・丁汝昌から降伏書がもたらされたのはその翌日のことであった〔『大海軍を想う』p.113〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中野信陽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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