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中野武営[なかの たけなか]
中野 武営(なかの たけなか〔『香川県の歴史 (県史37)』p276〕〔四国新聞社 〕〔四国新聞社編『讃岐人物風景 17』。〕、なかの ぶえい〔『中野武営と商業会議所』〕、嘉永元年1月3日(1848年2月7日)〔『讃岐人物風景 11』23ページ〕 - 大正7年(1918年)10月8日)は、明治・大正時代の官僚出身政治家、実業家。幼名は「権之助」または「作造」。号は「随郷」〔『中野武営と商業会議所』43ページ。〕。 == 人物 == 讃岐国・高松藩出身。官僚時代を経て、大隈重信の立憲改進党結成に参加。旧愛媛県の県議会議員に当選、次いで県議会議長となり、香川県の独立(再置)運動に奔走。後に代議士(衆議院議員〉となり、さらに東京市会議員、議長も務めた。 武士としての気骨と商才を併せ持って実業家としても成功し、「士魂商才」と称された。関西鉄道社長、東京馬車鉄道株式会社取締役、東京株式取引所理事長、日清生命保険会社社長等を歴任。 初代の東京商業会議所会頭 渋沢栄一の盟友で、後任で第二代東京商業会議所会頭となり、実業界・商工業者の発言力向上や産業振興、軍事費抑制、「営業税廃税運動」などを推進した。また財界の世話役として、渋沢とともに紛争の調停や新会社の立ち上げ、公益団体の設立などを数多く手掛けた〔『中野武営と商業会議所』917-1040ページ〕。 野球選手・審判の中野武二は息子〔中野武二 デジタル版 日本人名大辞典+Plus 〕。孫に作郎、次郎、俊三郎〔『現代名士の活動振り』井上泰岳 編 (東亜堂, 1911) 〕。雅号の「随郷」は、「郷に入りては郷に随ふ」の意〔郷に入りては郷に随ふ 『東京名古屋現代人物誌』長江銈太郎 著 (柳城書院, 1916)〕。
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