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中野 竹子(なかの たけこ)、嘉永3年(1850年)3月または弘化4年(1847年) - 明治元年8月25日(1868年10月10日))は、幕末期の会津藩の女性である。会津戦争において自主的に婦女隊として戦い、戦死した。しばしば烈女(烈婦)と称される。雅号は小竹で、中野小竹とも言う。 == 生涯 == 会津藩の江戸常詰勘定役の中野平内(忠順)の長女として江戸和田倉の藩邸で生まれた。幼少より聡明で、5~6歳の頃に小倉百人一首を暗誦して一字も誤ることがなかった。容姿端麗、男勝りの女丈夫として知られた。その妹・中野優子(まさこ)〔も評判の美人であった。 平内は書道の達人で持明院流の総締方勤であり、溺愛する娘の教育に熱心であった。同藩士・赤岡大助(忠良)が文武に秀で、品性方正であるという評判だったので、竹子をその門下に入れて学ばせた。大助は竹子の利発さに驚き、平内に請うて養女に迎い入れた。竹子は14~15歳で経書や史書を修め詩文や和歌をたしなむまでになった。成長すると、同藩士・黒河内兼規に薙刀術と短刀術を学び、薙刀は免許皆伝ほどの腕前であったと言う。また書家・佐瀬得所にも書を習って、備中庭瀬藩の藩主夫人の祐筆を務めこともあった。養父・大助の甥と結婚する予定であったが、戊辰戦争が始まったために復籍して、家族と共に会津に帰った。 会津若松城城下の坂下で、婦女子に学問や薙刀を教えた。竹子は庭での行水をのぞきにくる男たちを薙刀で追い払ったという逸話がある。 新政府軍が城下に侵攻した際、照姫を会津坂下で捜索していたことから、若松城へ入り損ねて、母・こう子らと共に婦女隊(娘子軍)を結成することになった。古屋佐久左衛門の衝鋒隊に混ざって戦いに加わることを許された前夜、こう子と竹子は婦女隊で最年少の優子がこれに加わるのは無理ではないか、足手まといになるのではないかと話し合い、妹は特に美人だったこともあり、敵に捕まって辱めを受けるより先に殺してやろうと考えた。しかし眠っていた優子を殺そうとした矢先、同隊の依田菊子がこれを止めに入って、戦場で一緒に死のうということになった。 戦闘では、竹子は奮戦したが頭に銃弾を受けて戦死した。首級を敵に与えることを潔しとしなかったので、こう子と優子は敵を薙ぎ払い、竹子を介錯〔妹優子や母こう子または農兵が介錯したとする説もある。〕〔なお、竹子の首を落としたと伝えられる妹・優子の薙刀は、会津武家屋敷(博物館)が所蔵している。〕して彼女の首を回収した。なお、竹子は胸を撃たれたという説もあり、その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。首級は後にこう子または農民の手により会津坂下町の法界寺に埋葬された。享年は20とも言うが、18や22などの異説がある。戒名は美性院芳列筆鏡小竹大姉。 辞世の句は「''ものゝふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも'' 」で、この句を認めた短冊を薙刀に結び付けて戦っていた。この薙刀は坂下町の骨董店より流出し、広瀬村長の生江家が所蔵していたが、現在は法界寺に寄贈されている。柄の長さ五尺三寸、刃の長さ一尺五寸、切先が欠けている。 戦闘後、こう子や優子は鶴ヶ城に入って、山本八重らと合流した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中野竹子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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