|
中野 遼太郎(なかの りょうたろう、1988年6月13日 - ) は、東京都出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(MF)。 == 来歴 == 4歳でサッカーを初め〔関東大学サッカー注目選手リレーインタビュー 第27回 早稲田大MF中野遼太郎選手(4年) ゲキサカ 2010.11.25〕、中学・高校時代はFC東京の下部組織に所属した〔 FC東京〕。高校3年時には背番号10を背負う主将として〔Jユースサハラカップは森本世代の集大成 All About 2006.12.18〕チームを牽引。ゲームをコントロールする役割を担った〔【Jユースサハラカップ2006 準決勝 F東京 vs 名古屋 】試合後の朴才絃監督(名古屋)コメント (cache ) J's GOAL 2006.12.17〕。同期には吉本一謙、森村昂太、権田修一、城間由太、稲葉基輝らがいた。 高校卒業後には、複数のJリーグクラブからオファーを受けたがFC東京トップチームを目指していたためこれらを断り〔新戦力 Vol.7 中野遼太郎 (cache ) 早稲田スポーツ 2007.05.20〕早稲田大学に進学、2007年よりア式蹴球部に所属した。1年時に鈴木修人の代役として抜擢されると武器と語る視野の広さと中盤での展開力を発揮し大榎克己監督から絶賛された〔 早稲田スポーツ 2007.09.21〕。鈴木の復帰後も出場機会を得、同年の全日本大学サッカー選手権の優勝に貢献した〔昨年の悔しさを糧に早稲田大学が日本一に輝く!第56回全日本大学サッカー選手権大会決勝戦レポート 日本サッカー協会 2008.01.16〕。 しかし大榎は同年限りで退任。後に、使われないのは分かっていたと語るほど〔 早稲田スポーツ 2010.06.23〕後任の今井敏明監督からは冷遇され、出場機会が激減。4年時には古賀聡監督から司令塔として背番号10を託されたものの、目立った活躍はできなかった。 2011年に大学を卒業。ドイツへ渡り、メクレンブルク=フォアポンメルン州のフェアバンツリーガ(は6部リーグに相当)に所属するFCポンメルン・グライフスヴァルトに加入。チーム2位となる10得点を挙げ〔FCポンメルン・グライフスヴァルト〕2011-12シーズン前期の首位に導いた。 2012年、ポーランドの1.リーガ(2部リーグに相当)に所属するアルカ・グディニャの入団テストを受け〔Japończyk Ryotaro Nakano na testach w Arce Gdynia sport.pl 2012.01.11〕合格。シーズン終了(6月30日)までの契約を結んだ〔Nakano w Arce. Wilczyński w Bytomiu, Ziętarski w Kotwicy. 2012.02.20〕。同年7月、ドイツ北東部のオーバーリーガ(5部リーグに相当)に昇格したFCポンメルン・グライフスヴァルトと再契約を結んだ。 2013年1月末、突如グライフスヴァルトとの契約を打ち切られたため、同年4月よりラトビア・1.リーガ(2部リーグ相当)のBFCダウガヴァに加入。26得点を挙げて得点王・最優秀選手に選出される活躍で〔中野遼太郎に聞く (365日FC東京/東京ぴーぷる) SOCCER KING (2013年12月17日)〕クラブのリーグ優勝に大きく貢献した〔 Pirmā līga ラトビアサッカー連盟〕。2014年からはヴィルスリーガ(1部リーグ)でプレー。第36節FCユールマラ戦ではハットトリックを記録〔BFC Daugavpils vs. FC Jūrmala 4 - 2 SOCCERWAY (2014年11月8日)〕。 2016年、FKイェルガヴァへ移籍〔Jelgava piesaista Smirnovu, Nakano, Ļitvinski un Zalaku FCイェルガヴァ (2015年12月22日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中野遼太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|