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中間小説[ちゅうかんしょうせつ] 中間小説(ちゅうかんしょうせつ)は、20世紀後半の日本の小説の分類で、純文学と大衆小説の中間的な作品。この層の作品を掲載する雑誌である、中間小説誌(ちゅうかんしょうせつし)という言葉でむしろ多く使われる。第二次世界大戦後の小説の大きな位置を占めるようになるが、大衆小説(娯楽小説)自体の地位の向上につれて、小説の分野を指す言葉として使われることは少なくなる。また個々の作家、作品については、歴史・時代小説、推理小説、恋愛小説、冒険小説などといった、娯楽小説の分類に従って呼ばれることが多く、中間小説とそれ以外の小説の厳密な区分けも存在しない。 ==発祥と背景== 純文学と大衆文学の接近は、大正時代に菊池寛や久米正雄が家庭小説へ転身するのを背景に、芥川龍之介の1926年「亦一説?」での「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」〔『中央公論』1926年7月号〕という気運に現れ始め、横光利一は「純粋にして大衆的な文学」という「純粋小説論」を提唱する。またこの頃から娯楽小説誌『オール讀物』や大衆誌『日の出』などに、純文学系の作家である武田麟太郎、丹羽文雄、高見順、林芙美子らの都会派風俗小説、井伏鱒二、尾崎一雄らのユーモア小説が掲載されるようになる。戦後になると、新戯作派や戦後派文学の勃興と並んで、丹羽文雄、石坂洋次郎、舟橋聖一、石川達三、井上友一郎ら既成リアリズムの流れを汲む風俗小説を発表するようになる。 「中間小説」という言葉は、1947年の雑誌『新風』(大阪書房)4月号の座談会で、林房雄の「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」との発言に対して、久米正雄がそれを「中間小説」と呼んだのが最初とされる。林は「ポーからオー・ヘンリーまでの間を狙っている」「中央小説」とも表現している。この語はこの年から翌年にかけて次第に広まって、山田克郎の1949年直木賞受賞の感想でも「林房雄氏の提唱される中間文学を仕事の場と考へている」と述べられた。 他に用語としては、戦前の総合雑誌の中で随筆など肩の凝らない読み物を「中間読物」と呼んでおり、昭和9年に評論家の新居格が純文学の一側面について「中間文学」という言葉を使った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中間小説」の詳細全文を読む
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