翻訳と辞書 |
中院光忠[なかのいん みつただ]
中院 光忠(なかのいん みつただ)は鎌倉時代末期の公卿。正二位権大納言弾正尹。尹大納言と称された。贈左大臣〔『尊卑分脈』中院光忠の項には贈左大臣と注記があるが、その根拠は不明。〕。父は従一位内大臣六条有房。母は不詳。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 永仁5年(1297年)11月14日、従五位下〔朔旦。従一位藤原相子の給。〕。永仁6年(1298年)2月18日、侍従に任ぜられる。正安3年(1301年)3月16日、従五位上に昇叙〔東二条院御給。〕。同年10月15日、左少将に任ぜられる。乾元2年(1303年)7月5日、正五位下に昇叙。嘉元3年(1305年)1月5日、従四位下に昇叙。同月22日、左少将に還任。嘉元4年(1306年)9月28日、従四位下の位記を止められる。蔵人に補される。徳治2年(1307年)1月19日、下野介を兼ねる。延慶元年(1308年)12月12日、蔵人を止められる。同月31日、従四位下に改めて昇叙。延慶2年(1309年)1月3日、左少将は元の如し。同月6日、従四位上に昇叙〔同日、兄有忠は従三位に叙せられる。〕。同年3月9日、春宮権亮に補される。延慶4年(1311年)1月17日、正四位下に昇叙。正和元年(1312年)4月10日、春宮権亮を止められる。同年12月19日、春宮権亮に還任。正和5年(1316年)11月18日、左中将に転任。文保2年(1318年)2月29日、蔵人頭に補される。 元応元年(1319年)5月15日、参議に任ぜられる。上野権介を兼ねる。左中将は元の如し。7月2日、父有房の喪に服す。9月29日、復任。元応2年(1320年)2月9日従三位に叙される。5月10日、左中将から右中将に転任。元亨4年(1324年)、権中納言に任ぜられる〔同年中に正三位に昇叙されたと考えられる。〕。正中2年(1325年)9月6日、勅授帯剣を許される。12月18日、権中納言を辞した。嘉暦元年(1326年)1月10日、本座を許される。嘉暦2年(1327年)1月5日、従二位に昇叙。元徳元年(1329年)10月10日、弾正尹に任ぜられる。元徳2年(1330年)11月7日、権大納言に任ぜられる。元徳3年(1331年)1月5日、正二位に昇叙。2月18日、薨去。享年48。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中院光忠」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|