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中院通富 中院 通富(なかのいん みちとよ〔 / みちとみ〔、1823年2月18日(文政6年9月23日)- 1885年(明治18年)6月19日〔『平成新修旧華族家系大成』下巻、238-239頁。〕)は、幕末の公家、明治期の華族。伯爵。 ==経歴== 山城国京都で内大臣・徳大寺実堅の二男として生まれ、侍従・中院通繁の養子となる〔〔『明治維新人名辞典』704頁。〕。天保8年3月25日(1837年4月29日)に元服し昇殿を許される〔『公家事典』688頁。〕。天保12年8月29日(1841年10月13日)右近衛権少将に任じられ、右近衛権中将、兼参議、権中納言を経て、慶応4年2月2日(1868年2月24日)権大納言となった〔。 安政5年3月(1858年)、日米修好通商条約締結の勅許案を巡り、中山忠能・大炊御門家信・広幡忠礼・四辻公績・正親町三条実愛・正親町実徳・三条西季知・日野資宗・庭田重胤・八条隆祐・橋本実麗・野宮定功と共に、案文の変更を求めた〔東京大学史料編纂所ホームページ「維新史料綱要データベース」。〕〔『明治維新人名辞典』704頁では、安政勤王八十八廷臣の一人とされているが、東京大学史料編纂所ホームページ「維新史料綱要データベース」では該当しない。〕。万延元年7月(1860年)儲君祐宮(後の明治天皇)の三卿に就任〔。その後、七次にわたって議奏加勢を務める〔。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与、林和靖間詰並御内儀口向等取締に就任〔『百官履歴 上巻』282-283頁。〕。同年閏4月、桂宮祗候に転じ、その後、殿掌などを務めた〔。 1884年7月7日、伯爵を叙爵した〔『官報』第307号、明治17年7月8日。〕。
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