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中院通教[なかのいん みちのり]
中院通教(なかのいん みちのり)は鎌倉時代中期の公卿。正二位権中納言。内大臣中院通成の二男。母は宇都宮頼綱の娘。妻は従二位三条公俊の娘である中納言典侍、高倉清俊の娘。子には中院通藤、中院通冬がいる。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 宝治2年(1248年)1月6日、叙爵。建長3年(1251年)1月22日、侍従に任ぜられる。12月22日、従五位上に昇叙。建長6年(1254年)5月10日、正五位下に昇叙。9月6日、右少将に任ぜられる。建長7年(1255年)2月13日、信濃介を兼ねる。康元元年(1256年)1月6日、従四位下に昇叙。同月7日、少将は元の如し。正嘉元年(1257年)閏3月27日、左中将に転任。正嘉2年(1258年)4月6日、従四位上に昇叙。正元元年(1259年)1月6日、正四位下に昇叙。弘長2年(1262年)1月17日、加賀介を兼ねる。
文永4年(1267年)1月5日、従三位に叙される。文永6年(1269年)2月17日、左中将に任ぜられる。11月28日には参議に任ぜられる〔父通成が内大臣を辞した際の挙任である。〕。12月2日には改めて左中将を兼任。文永7年(1270年)1月21日、讃岐権守を兼ねる。2月1日、正三位に昇叙。8月14日には左兵衛督を兼ね検非違使別当に補される。文永8年(1271年)4月7日、右衛門督に転任。10月13日には従二位に昇叙。文永10年(1273年)9月25日、検非違使別当を辞す。12月8日には右衛門督を辞した。文永11年(1274年)4月5日、権中納言に任ぜられる。建治2年(1276年)12月20日、正二位に昇叙。弘安7年(1284年)1月13日、権中納言を辞した。弘安9年(1286年)12月23日、父通成が薨去したため喪に服す。弘安10年(1287年)、出家。没年不詳。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中院通教」の詳細全文を読む
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