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中馬 : ウィキペディア日本語版
中馬[ちゅうま]
中馬(ちゅうま)とは、江戸時代信濃国甲斐国で発達した陸上運輸手段。
== 概要 ==

=== 沿革 ===
信濃・甲斐は中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川は水運に向かなかったために山越えのし易い馬による輸送に依存せざるを得なかった。加えて五街道などでは公式の伝馬役は隣接する宿場町間のみの往復に限定され、宿場町ごとに馬を替えなければならずかつ駄賃や問屋場口銭を徴収された(「宿継ぎ」)ことから不便であった。一方、江戸時代初期頃より沿道の農民が自己の物品を城下町などに運ぶ手馬(てうま)と呼ばれることが行われていたが、寛文年間ころより副業として駄賃馬稼も行うようになった。それが次第に専業化して顧客の依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで荷物を運ぶようになった元禄年間初頭(1690年代)には中馬と呼ばれるようになった。
中馬は宿場町で馬を替える必要がない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれるの仕組で行われていたため、手数料を取られたり荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低く、急激に成長していった。一方、伝馬役を扱う宿場問屋は大きな打撃を受けただけではなく、江戸幕府の公的輸送負担を課せられて二重の意味で苦しんでいたため中馬に激しく反発した。
延宝元年(1673年)と元禄6年(1693年)に宿場問屋が中馬の禁止を求めて江戸表に訴えを起こしたが、中馬の慣行を規制する理由なしとして却下された。もっとも五街道や北国街道では江戸幕府により、沿道の単位でも藩法による規制が行われる例はあったが、飯田藩のほぼ全域を貫く飯田街道(伊那街道)では中馬の規制が緩やかであった(松本宿へ600駄、上諏訪宿下諏訪宿へ800駄の宿継ぎを義務付けた以外は規制が行われなかった)ため、同地域を中心とした当時の南信濃4郡(伊那郡諏訪郡安曇郡筑摩郡)を中心に隆盛となった。
このため、宝暦10年(1760年)には中馬の大幅な規制を求めて再度の訴訟となったが、これには中馬側と松本商人が連携して激しく抵抗した。明和元年(1764年)に江戸幕府は村ごとに中馬の数(679村計18768匹)と輸送できる物品及び活動範囲を定めること、伝馬制の維持への協力を条件として中馬の公認を行った(明和裁許状)。その後も宿場問屋や中馬によって脅かされ中馬と同等の権利を求めた三河国の村々の農民との争いが勃発したが、明和裁許状をたてに中馬側が彼らの抵抗を抑圧しながら勢力を拡大させ、明治に至ったが、鉄道・道路の整備とともに衰退していった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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