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丸〆猫(まるしめのねこ)は、東京都台東区浅草二丁目3-1にある浅草寺及び浅草神社(三社様)〔明治の神仏分離以前は浅草寺に属していた。〕に由来する今戸焼の招き猫。全国に「招き猫発祥の地」と呼ばれる神社仏閣が分布しているが、当時の言い伝えとともに現存する招き猫の実物や記録されたものがほとんどない。多くの招き猫発祥の地が伝説の域を出るものがほとんどないなかで、現在までのところ造形物として実在する最古の招き猫、あるいは遡ることのできる招き猫の起源と呼ばれるものである。その形状は基本的に江戸時代の今戸焼製の招き猫特有な「横座りで頭を正面向きにして招く」ポーズ〔江戸明治からの伝世品や都内近世遺跡からの出土品などを見ても今戸焼製の猫の土人形は「座猫」「鞠猫」のように横座りで頭を正面向きにしている姿ものがほとんどであり、正面向きに招いているものは少ない。今戸で正面向きの招き猫が作られるようになったのは明治後半より西日本の人形産地からの正面招き姿のものが東京へ流入するようになった影響によるものであると考えられる。従って正面向きの今戸焼の招き猫は歴史の古いものとは考えられない。〕のものが基本で、臥して招いている古い作例も見られる。背面腰の辺りに「丸に〆」の陽刻があり、「金銭や福徳を丸く勢〆ると」という縁起かつぎの意味合いを持つ。 == 歴史 == 嘉永5年に記された武江年表によれば、浅草花川戸に住む老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れて「自分の姿を作り祀れば福徳自在となる」と告げたので、そのとおりにしたところ利益を得たことが評判となり、今戸焼の土人形にして浅草寺三社権現(現・浅草神社)鳥居辺りで老婆によって売りだされ大流行になった、とある。 また「藤岡屋日記」嘉永5年の項では浅草観音猫の由来として浅草寺梅園院境内でひねり土人形を渡世をしていた老夫婦の愛猫が知り合いの飼っていた小鳥をあやめてしまったことに罪を感じて自ら井戸に身を投げた。 その後、老婆の夢に猫が現れ非を詫び「今後はあなたを守りいかなる病でも全快させる」と告げ、仲間の今戸焼屋が作った猫を拝んだところたちまち病が治ったことが評判となり、浅草寺三社権現(現・浅草神社)鳥居辺りで鬻がれ大評判になったことが記されている。 その猫の姿は招き猫とも丸〆猫とも言われたことも明記されている。当時丸〆猫が鬻がれていた様子は嘉永5年の歌川広重(安藤広重)画の錦絵「浄るり町繁華の図」にも浄瑠璃「軍法富士見西行」の西行の見立てとして描かれている。 また都内の近世遺跡からの出土品の中から丸〆の陽刻のある江戸在地系土質の招き猫も出土していること〔新宿区生涯学習財団「東京都新宿区水野原遺跡」(第二分冊)2003 ほか 〕から、記録、絵画、出土品と揃った現在まで一番確実な造形物としての最古の招き猫と考えることができる。 上記の複数の記録では具体的に浅草寺三社権現(現・浅草神社)の鳥居辺りで売られたことが明記されており、招き猫ゆかりの場所としてかつてはひとつであった浅草寺及び浅草神社が最も古い記録を有していることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸〆猫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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