|
丸十製パン(まるじゅうせいパン)とは、日本全国に暖簾分けとして展開した丸十製パン店における製法の名称である。 == 沿革 == 丸十製パンは、甲州市(旧塩山市)出身の田辺玄平(1874年11月16日 - 1933年10月16日)が明治34年に渡米し現地の製パン法を習得したのが始まりとされている。 アメリカで学び明治43年に帰国。当時日本には冷蔵庫が無く、生イーストの管理がほぼ不可能であったため、私財を投じドライイーストの研究に励み、大正2年東京下谷黒門町に食パン製造工場を創設し、大正4年「玄平種」を完成させる。この玄平種は、それまで自家培養種法に依存していたパン業界に画期的影響を与える。玄平種を使用することにより、パン種作りの職人がいなくとも誰でも製パン業が営めるようになり、同業他社の競争激化が続出することになるが、発明者の田辺は、学校に持ち込み家庭製パンの普及事業を始める。田辺の目的はあくまでもパン食の普及であった。 田辺はまた豆粕飯と玄米パンの創案者(田辺は著書『脱脂豆飯と玄米麺麭』の中で、田尻白雷博士が以前にも需要を喚起したものの「風味が一般の嗜好に適せざりし為め」効果がなかったと書いている。正確には味のよい玄米パンの作り方を創案)でもある。日露戦争による脚気研究(鈴木梅太郎による「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」)の向上、また大正7年の米騒動を受けて、代用食で東京市市長に玄米パンを奨励している。田辺の狙いは玄米パンを普及することによって脚気予防に一役買い、伏せてパン食を普及しようとするものであった(日本の脚気史 参照)。 田辺の一番弟子は池田操・雨宮五六・前原登志郎・志田頼次郎(東京)。林幸一(横浜)・平野芳身(浜松)であり、彼らは「丸十互助会」を発足させる。この互助会の目的は、麻布本店・赤坂分店の両主人を中心に、新製品の開発販売方法の研究、原材料の共同購入、従業員の育成等を志すもので、「親睦と共栄」をその根本理念とした。彼らは求められるならどこの地方へも出向き新しい製パン法を伝授した。この玄平種で造られる食パンは砂糖とラードを用いられ、この方式は玄平が米国で体得したものでありそれ以前の日本の食パンはヨーロッパ流の塩味パンであった。この大正時代から日本のパンが米国式に変わったのは田辺玄平の指導に負うところが多い。 その製パン法を学ぼうと、全国から弟子が集まり、その門弟が田辺家の家紋(「○」の中に「十」)を商標に掲げ、全国に広めていったのが始まりとされている。現在は商標登録制になっており、組合員だけが使える商標である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸十製パン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|