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丸山俊明(まるやま としあき、1960年- )は、建築史学者、住環境文化研究所代表。 京都市左京区生まれ。京都府立鴨沂高等学校卒業。1983年琉球大学法文学部史学科日本史専攻卒業。1989年大阪工業技術専門学校2部建築学科卒業。2001年京都工芸繊維大学大学院博士課程修了、「山城国農村部の建築規制に関する研究」で学術博士。熊谷建築設計事務所所員、京都環境計画研究所所員、丸山建築設計事務所・住環境文化研究所主宰をへて、2012年京都美術工芸大学工芸学部建築コース(伝統建築)教授。2016年3月に同大学を退職、4月から住環境文化研究所(所在:甲賀市信楽町勅旨2335-42☎0748-83-0555)再開。一級建築士。専門は建築史・都市史。〔『京都の町家と聚楽第』著者紹介〕日本建築学会正会員。特別史跡新居関跡整備委員会建築専門部会委員。南丹市景観審議委員会委員。 ==研究の目的と手法== 丸山俊明は、建築史研究者としての目的を、江戸時代の京都の建築・消防・治安を複合的に検討する事で近世都市の構造を立体的に復原し、人口減少と都市集中が予想される今後の都市計画に寄与する事、と述べている〔丸山俊明:京都の町家と聚楽第,太閤様御成の筋につき,結章,昭和堂 2014〕。従来の建築史研究の遺構調査とヒアリング重視の手法に限界を指摘、文献・絵画資料など歴史史料の導入の必要を主張する点に歴史系出身者としての特徴があり、近年では放射性年代測定など理化学的年代測定も導入している。江戸時代の京都及び近郊農村をフィールドとして、①建築面では京都の町家と近郊農村の百姓家に関する建築規制の影響の解明、②消防面では諸制度の解明と町人に関する従来評価の否定、③治安面では町々の木戸門の機能と型式の解明、これらの研究成果を日本建築学会発行の『日本建築学会計画系論文集』『日本建築学会近畿支部研究報告集』『日本建築学会大会学術講演梗概集』に発表している(多くは『京都の町家と町なみ 何方を見申様に作る事、堅仕間敷事』昭和堂 2007、『京都の町家と火消衆 その働き、鬼神のごとし』昭和堂 2011、『京都の町家と聚楽第 太閤様、御成の筋につき』昭和堂 2014収録)。 これまでの建築史研究では、たとえば町家や百姓家については、遺構の実測調査と住人のヒアリングが重視され、普請願書(ふしんがんしょ、建築許可申請書、間取り図が添付される場合が多い)などの文献史料や『洛中洛外図』屏風などの絵画史料、建築行政など支配構造との関係は軽視されてきた〔丸山俊明:京都の町家と聚楽第,太閤様御成の筋につき,結章,昭和堂 2014〕。これに対し丸山は、京都近郊農村の百姓家建築の際、京都代官所の見分(けんぶん、竣工検査)が徳川政権の建築規制を順守させた事を指摘〔丸山俊明:『岩倉村文書』普請願書の家建見分,日本建築学会計画系論文集,第524号,1999.10〕、さらに見分実態を解明〔丸山俊明:京都領町奉行所による出来見分の実施形態について,出来見分の役人構成を中心として,日本建築学会計画系論文集,第531号,200.5〕して以降、江戸時代の建築に建築規制の影響を主張するようになった。 また『京・まちづくり史』(昭和堂 2003)の分担執筆に参加、建築を町家と百姓家から、消防を火消から、治安を木戸門から検討して以降、これら3点を複合的に検討する手法を用いはじめた。この手法を中村琢巳(竹中道具博物館研究員)は「歴史学、建築史学、民俗学を包み込むような独自の手法」〔『建築史学』第五十九号 2012.9〕と評価、石津裕之(京都大学防災研究所)も「都市に関心を持つ者にとっては、分析方法や発想を得る点で一つの道標」〔『史林』第95巻第4号、2013.7〕と述べている。ただし異論もあり、梶山秀一郎(京町家作事組)は「歴史研究の資料としては評価の低いとする洛中洛外図を渉猟」〔京都民報,2017.7.27〕と批判したが、丸山は「複数史料に共通かつ異種史料で検証できる内容は事実とみなすのが歴史研究の一般的手法」〔丸山俊明:京都の町家と聚楽第,太閤様御成の筋につき,結章,昭和堂 2014〕と答えている。その史料の中に放射性年代測定の結果もあり、京都の町家に初めてとなる瀬川家住宅の測定では京都最古級にあたる18世紀初頭という結果を得ている〔丸山俊明:京都外縁の町家の農民住宅化,放射性炭素年代測定を用いた瀬川家住宅の再評価,日本建築学会計画系論文集,第638号,2009.4〕。また、徳川政権の梁間規制の影響が明確な黄檗山天真院客殿の解体調査の設計・監理を担当した際に得られた知見と放射性年代測定の結果を照合して、従来とは異なる成果を発表している〔丸山俊明:天真院客殿と梁間規制に関する試論,保存修理工事に伴う調査と放射性炭素年代測定を用いた黄檗宗塔頭の再評価,日本建築学会計画系論文集,677号,2012.7〕。 その一方で「歴史的用語の意味の解明も歴史研究の対象の一つ」〔丸山俊明:京都の町家と聚楽第,太閤様御成の筋につき,第11章,昭和堂 2014〕とし、歴史的用語の扱いには厳密な態度をとる。その姿勢は京町家の解釈に顕著で、江戸時代から京都特有のものを「京何々」と形容する用語の存在は認めつつも、江戸時代から戦前にかけて「京町家」の用例は皆無とし、民家研究が型式分類の根拠とする間取りにも京都固有の要素はない、あえて探すならアメリカ空軍に原爆投下予定地とされ空襲が限定的であった京都には日本の大中都市の中で唯一町家が面的に残る点とし、むしろ日本の近世都市住宅の代表的な遺構群が京都に残る、すなわち「京都の町家」であって、京都固有の意味を内包する「京町家」との混用に慎重であるべきとする〔丸山俊明:『洛中絵図』に「町屋」と記された洛中農村の百姓居宅と、江戸時代の同地史料にみる町屋の意味,日本建築学会計画系論文集,第676号,2012.6〕。歴史的用語としての「京町家」は「現行の建築基準法が施行される昭和25年以前、つまり現在の行政責任の対象外となる京都市の住宅を一括りにして観光や不動産資源とするため、昭和40年代につくられた造語」〔丸山俊明:京都の町家と聚楽第,太閤様御成の筋につき,第11章,昭和堂 2014〕であり、中近世に洛中洛外町続きの建物を意味した「京都の町家」「京の町家」とは異なるためというのが理由である。ただし丸山は、この厳密性は研究者のみ求められるとし、建築生産背景の異なる近世・近代・現代の住宅が一括して「京町家」と定義される現状〔京都市は「昭和50年以前に伝統的木造軸組構法で建築された京都の木造住宅」と定義する、ただし丸山は京都を含む各地で厨子二階や虫籠といった要素を生みだしたのは江戸時代の建築規制であり、それらが解除され個室増加や二階の周辺眺望機能の確保、居住性の向上といった変化が起きた近代住宅と同列に扱う事に疑問を呈している〕において「京町家」が多用される事に異論はないとも述べている〔丸山俊明:京都の町家と聚楽第,太閤様御成の筋につき,序章,昭和堂 014〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸山俊明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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