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丸山 昭(まるやま あきら、1930年- )は、日本の漫画編集者。『少女クラブ』編集長、講談社取締役を務めた。山梨県甲府市出身。学習院大学哲学科卒業。 1950年代から1960年代にかけて、手塚治虫担当の編集者として活躍した他、初期のトキワ荘に住む漫画家を発掘、担当を務めて、数々の新人を育て上げた編集者である〔武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文藝春秋、2005年、p.96〕。 丸山が育てた漫画家に、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子らの名前が挙げられる〔『赤塚不二夫のことを書いたのだ』p.102〕〔長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版、2004年、pp.52-58〕〔長谷邦夫『マンガ編集者狂笑録』水声社、2008年、p.175〕。トキワ荘グループの漫画家たちを育てた功績に対して、2001年に手塚治虫文化賞特別賞が授与された〔第5回手塚治虫文化賞特別賞 手塚治虫文化賞公式ページ(asahi.com内)〕。 2000年代後半には、かつての漫画編集者を取材し、江東区森下文化センターで元編集者や漫画家を招いて講演会を開いて、現場の記録を残す活動を行っている〔夏目房之介「編集者の役割」『マンガ学入門』夏目房之介、竹内オサム編著、ミネルヴァ書房、2009年、p.145〕。 == 経歴 == *1953年(昭和28年)、大日本雄弁会講談社(現・講談社)に入社。1954年(昭和29年)、『少女クラブ』編集部配属となり、当時「リボンの騎士」を連載していた手塚治虫の担当となり、以後、手塚番を6年務めた〔丸山昭『まんがのカンヅメ 手塚治虫とトキワ荘の仲間たち』ほるぷ出版、1993年、p.97〕。 *1955年(昭和30年)8月、手塚治虫を訪ねてきた石ノ森章太郎、赤塚不二夫、長谷邦夫に偶然出会う。後に石ノ森、赤塚担当となり、トキワ荘に住む漫画家達との交流が始まる。このころ、水野英子の投稿作に注目し、後にトキワ荘に水野を呼び寄せ、育て上げる。 *1958年(昭和33年)、『ぼくら』編集部に異動。 *1959年(昭和34年)、『少女クラブ』編集長になる。 *1967年(昭和42年)、講談社フェーマススクールズの設立に参加し、同社の取締役となる。 *1981年(昭和56年)1月13日、手塚治虫が中心になり、トキワ荘のかつての居住者らが集まりトキワ荘の同窓会が開かれ、漫画家以外では唯一の参加者となる。その模様はNHK特集『わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝~』として5月25日に放送されたが、丸山は映っていない〔『まんがのカンヅメ』p.112〕。 *1998年(平成10年)、講談社を退社。 *2001年(平成13年)、朝日新聞社の第5回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。 *2002年(平成14年)、「私の八月十五日」の会に参加。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸山昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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