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丸山 誠治(まるやま せいじ、1912年6月15日 - 1989年11月22日)は日本の映画監督。男性映画を得意とする一方、司葉子のデビュー作を撮った監督としても知られる。代表作に『男ありて』『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『日本海大海戦』など。 == 来歴、人物 == 山口県山口市道場門前町の出身。京都帝国大学(現・京都大学)法学部在学中に同大学交響楽団の第一バイオリン・メンバーとして、アルバイトで映画音楽演奏の仕事などもこなした。 1936年、大学卒業と同時にPCL(東宝の前身)に入社。同期に黒澤明、関川秀雄らがいる。山本嘉次郎の助監督となるが、1937年と1943年の二度にわたり応召。日中戦争に従軍したために監督昇進が遅れる。 1951年、師・山本嘉次郎脚本の映画『三太物語』で監督デビュー。初期はホームドラマを量産する。 1954年、有馬稲子、池部良主演で『君死に給うことなかれ』の撮影に入るが、有馬が病気により降板。代役としてたまたま当時家庭よみうりのグラビアを飾っていた毎日放送局の社員・司葉子を起用して成功。〔志村三代子・弓桁あや編『映画俳優 池部良』(ワイズ出版)259p、325p。なお、本書では家庭よみうりで司を発見したのはプロデューサーとされているが、2007年に本書の出版を記念して池袋・新文芸坐で開催された上映会『二枚目スター“池部良”の魅力のすべて』のうち、3月3日『早春』終了後のトークショーにおいて、池部自身が「司葉子を家庭よみうりで発見したのは丸山誠治監督」という要旨の発言をしていることから、当項目はその発言に倣うものとする。〕 司をスターダムに押し上げた。 1955年には、志村喬が引退を控えたプロ野球の監督を演じた『男ありて』を監督。硬派のスポーツ映画を目指し、そこに男性的なホームドラマを絡めたこの作品は、のちに澤地久枝が著した志村喬の評伝にタイトルが使われるなど、志村の代表作の一つとなる。 1965年、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』で初の戦争映画に挑戦。関係者に綿密な取材を行い、キスカ島守備隊の生存者をアドバイザーとして撮影に立ち会わせるなどして、太平洋戦争中の知られざる無血撤退作戦の映画化に臨んだ。〔DVD『太平洋奇跡の作戦 キスカ』映像特典より。〕 これで戦争映画の力量を認められ、1967年以降東宝が年1本ペースで大作戦争映画を製作するようになると、三船敏郎を主演に迎えて『連合艦隊司令長官 山本五十六』と『日本海大海戦』を監督する。この2本は、東宝特撮とのコラボレーションであり、特に後者は円谷英二の遺作として特撮が最大の見せ場になっているが、世界レベルで舞台が移動する壮大なドラマを手際良く処理する丸山の演出も、映画の完成度をより高めることとなった。一方、山本五十六や東郷平八郎とその家族を頂点として、さまざまな登場人物の家族ドラマや青春ドラマが交錯する群像劇に、東宝の普通級作品(プログラムピクチャー)で数々のホームドラマや青春映画を監督してきた丸山の力量が存分に活かされた。 1979年にフリーとなり、念願だった日豪合作の戦争映画『南十字星』を最後に第一線を退いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸山誠治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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