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丸山 邦雄 (まるやま くにお、1903年(明治36年)6月2日 - 1981年(昭和56年)10月17日)は、日本の経済学者、社会運動家、明治大学教授。 終戦直後、安全の確保や餓え、流行病に苦しむ旧満州在留邦人救済のため 新甫八朗、武蔵正道 らとともに日本国政府や連合軍最高司令官総司令部(GHQ)などとの交渉や働きかけに奔走。旧満州在留日本人同胞の脱出・祖国引き揚げ実現に多大なる貢献を果たす〔 旧満州引き揚げの立役者 父ら3人決死の脱出、在留邦人帰還へGHQに働きかけ ポール邦昭丸山 2014/11/24付 日本経済新聞 朝刊 〕〔〈新聞〉 〕〔満州 奇跡の脱出 ~ 170万同胞を救うべく立ち上がった3人の男たち 我ら同胞を見捨てず――この3人の男たちこそが、真の勇者だろう 〕〔〕。 ==略歴== 長野県下水内郡柳原村(現 飯山市)に生まれる。旧制高校卒業と同時に明治大学法科に入学、法律を学ぶ。 1930年(昭和5年) 明治大学卒業。渡米留学し、ビュゼット・サウンド、ジョージ・ワシントン、コロンビアの各大学にて政治経済学を専攻してBA、MAの学位を取得した。1937年(昭和12年)離米し、欧州諸国を歴訪する。1938年(昭和13年)に帰国〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.19~〕。 その後渡満し、鞍山市に本社がある 昭和製鋼所本社〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.19~〕(鉄鋼大手)(満州製鉄株式会社〔『ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて』奥付の「著者略歴」では「満州製鉄KK」となっている〕〔昭和製鋼所が満州の他の製鉄関係事業者との統合再編で満州製鉄株式会社となったのは、1944年4月である(松田俊郎「1940年代後半における昭和製鋼所の製鋼工場 」『岡山大学経済学雑誌』No.30(1)、岡山大学経済学部、1998年)。〕)に入社、調査、報道及び社員教育を担当。 1946年(昭和21年)終戦直後、当時42歳の丸山は、新甫八朗(当時32歳)、武蔵正道(当時24歳)らとともに全満カトリック教会管長・大連カトリック教会 レイモンド・レイン司教〔『ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて』P.106〕、全満日本人会長 高碕達之助〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.113〕らの協力のもと、高碕からの日本政府宛の密書を携え、1946年(昭和21年)3月9日、危険を冒しながらも密かに満州を脱出し、海路にて同年3月13日、山口県仙崎に上陸を果たす〔〕。在満同胞救済代表 として上京、ラジオ放送や日本各地において在満同胞救済の世論喚起や演説を行う。 その一方で英語に堪能な丸山は、ローマ法皇庁使節 ポール・マレラ大司教〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.107〕、楢橋内閣書記官長、幣原首相 〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.134~〕、GHQ副官ヒューラ大佐〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.140~〕、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーの相談役である パトリック・バーン神父〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.164~〕、さらには 「マッカーサー元帥 と 天皇陛下 には、話しかけてはいけない」 と言われた当時、マッカーサー本人、吉田茂外相(のち首相)〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.158~163〕ら、数多くの日米欧要人と直接面会。救出への交渉や働きかけを行い、終戦から8ヶ月後の1946年(昭和21年)4月、安全の確保や餓え、流行病に苦しむ 旧満州在留日本人同胞の脱出・祖国引き揚げ実現に結びつける。 1952年(昭和27年) 母校明治大学の講師(生田キャンパス(農学部)では経済学と英語、駿河台キャンパス(文学部)では英語を担当)となる。1953年(昭和28年)新設の 明治大学経営学部の講師(経済学、英語)次いで教授に就任。1964年(昭和39年)同大学より研究視察のため欧米に派遣され、イギリスグラスゴー、エディンバラ両大学にて 経済学及び経済学史の研究を行う。この間、明治大学の民主化にも尽力。1969年(昭和44年)、定年制により 明治大学兼任講師、同年帝京大学専任教授に就任〔ユートピアをめざして アジアの曙- 死線を越えて P.335~337〕。 本邦政経研究会長、日米協会、国際善隣倶楽部正会員。 米国ビュゼット・サウンド大学 在籍時に日系2世の女性と知り合い、後に結婚。四男二女をもうける。1981年(昭和56年)10月17日に逝去(78歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸山邦雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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