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丸木 位里(まるき いり、1901年6月20日 - 1995年10月19日)は、日本画家。妻・丸木俊と共作の『原爆の図』が著名である。 == 生涯 == 広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)で農業および太田川で船宿を営む丸木金助・スマの子として生まれた。臨月の頃、スマは船宿の2階から客の食膳を下げる際に階段から転落した。その事故により、出生した位里の顔の右側には目立つ痣が残ってしまっていた。このことで位里に負い目を感じたスマは、位里の生き方には干渉せず、一切を本人の自由に任せることにした。位里はそのことを終生感謝していたという〔針生一郎 「広島の原爆美術史」 『百兵衛』10号(2009年7月)、所収。〕。長じて上京し田中頼璋・川端龍子に師事。日本南画院、青龍社に参加し1939年から1946年まで美術文化協会展に出品。1941年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚した。 1945年8月広島に原爆が投下されると、広島市西郊の三滝に移住していた父母など実家の家族の安否を気遣った位里は、疎開先の埼玉県浦和市(当時浦和画家など画家が多く居住していた)を離れ、俊とともに被爆直後の広島に赴き救援活動に従事した〔父・金助は原爆投下時に爆心地近くにいたため体調が優れず1年後死去したが、スマは爆心地から遠く離れた自宅に居たため健在であった。同上、針生。〕。この体験をもとに1950年、俊と協働で『原爆の図』を発表するとともに絵本『ピカドン』を刊行し、以後、原爆をテーマとする絵画を描き続けた。 1946年に日本共産党に入党。 1956年11月、丸木夫妻がアムステルダム留学中、原爆の絵の展覧会を手伝ったことで知り合った香川睦久が留守宅に上がり込み、留守番をしていた母のスマを撲殺。窃盗目的の殺人と見られている。事件発覚後、香川の遺体が神奈川県横須賀市長者ヶ崎で発見されたが、飛び込み自殺したものとされた。 1964年に部分的核実験停止条約の評価を巡り共産党を除名される〔菅原憲義『遺言‐丸木位里・俊の五十年』(青木書店) 200頁〕。 1966年、埼玉県東松山市に移住し、翌1967年に自宅近くに原爆の図丸木美術館を設立した〔この街に生きる・東松山の巻・丸木美術館 〕。 1995年には妻の俊とともにノーベル平和賞にノミネートされたとされ、翌1996年には朝日賞を受賞した〔丸木美術館-丸木夫妻略歴と館史 2013年9月11日閲覧。〕〔「ノーベル平和賞候補」は丸木美術館ウェブサイトの記載によるが、ノーベル賞の候補者や選考過程には50年間の守秘義務があり、選考者のノルウェー・ノーベル委員会から公式に発表されたものではない点に留意が必要。〕。『原爆の図』以外では、『水俣の図』、『南京大虐殺の図』の妻との共作もある。また、位里単独の作品(日本画)では牛をモチーフとした一連の作品が知られている。画家・絵本作家の大道あやは妹にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸木位里」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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