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丹党[たんとう] 丹党(たんとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武蔵七党の一つである武士団。 == 出自 == 第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称し、各種史書〔『武蔵七党系図』『井戸葉栗系図』(いずれも『系図綜覧』所収)、『大日本史』、『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』など。〕でもいずれも宣化天皇裔としている。一方で、これらの史書上に掲載されている系図の記載内容が史実と矛盾する〔『武蔵七党系図』では、多治比嶋の子丹治家範(『井戸葉栗系図』では弟で家野里とする)、その子丹治家隆(同じく家鷹)から始まる系図を記すが、家範(家野里)を推古朝の人、家隆を皇極朝の人としており、文武朝の大臣である嶋の子孫とするには年代的に矛盾。また、『丹治氏青木系図』(『寛永諸家系図伝』所収)では、宣化天皇の皇子に檜隈皇子その子に家範とし、家範が継体朝で宿禰姓を賜与されたとの記述があるが、宿禰姓は天武朝に八色の姓として定められた姓の一つであり、やはり年代的に矛盾する。さらに、「家範」「家隆」という名前も飛鳥時代にそぐわない。なお、『寛政重修諸家譜』(657巻,丹治氏条)では、『寛永諸家系図伝』所収の系図を信用できないと断じている。〕〔この他、異説として、丹党の祖丹生武信の父に多治比県守の玄孫多治今継を充てる系図(『勅使河原氏之系譜』(『埼玉叢書』第4 所収))や、多治比広成の孫多治貞峰の子孫とする説(『新編武蔵風土記稿』騎西久伊豆神社条など)がある。〕ことから、後世の仮冒とする説も多く見られる。太田亮『姓氏家系大辞典』では、宣化天皇の御名代の一つ檜前舎人の伴造家であった檜前舎人直〔「ひのくまのとねり(あたい)」と読み、出雲氏族で武蔵国造家の一族とされる。〕の後裔とする説〔太田亮はこの説の根拠として、以下3つの理由を挙げている。①丹党の勢力範囲は賀美郡を中心としたが、これは檜前舎人の分布領域(賀美郡・那珂郡)と一致している。②丹党が宣化天皇裔を称していることは、檜前舎人直が宣化天皇の御名代である檜前舎人の伴造家であることと関連がある。③『丹治氏青木系図』において、丹党の祖として各種史書では見られない檜隈皇子をあげているのは、丹党の出自が檜前(=檜隈)舎人氏であることの反映である。〕、鈴木真年は丹党の氏神高野明神〔『新編武蔵風土記稿』賀美郡長浜下郷村丹生明神社条など〕をまつる丹生都比売神社の社家(天野祝家)を世襲した大丹生直〔「おおにう(あたい)」と読み、紀国造家の一族とする。〕の後裔とする説〔『華族諸家伝』大田原勝清条〕、をそれぞれあげている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹党」の詳細全文を読む
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