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丹羽文雄 : ウィキペディア日本語版
丹羽文雄[にわ ふみお]

丹羽 文雄(にわ ふみお、1904年明治37年)11月22日 - 2005年平成17年)4月20日)は、三重県出身の日本の小説家
== 略歴 ==
三重県四日市市北浜田にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺(現在の浜田保育園)で住職を務める父・教開の長男として生まれた。母・こうは、文雄が4歳のときに旅役者の後を追って出奔した。この母への思慕と追憶が、文雄の作品世界には投影されている。母の出奔は、婿養子に来た父が、母の母つまり祖母と男女関係を結んでいたからである。丹羽はのち『菩提樹』にこのことを書き、『ひとわれを非情の作家と呼ぶ』でより平明に説明している。この原体験が、丹羽をして人間の業を見つめる作家となし、その救いを浄土真宗に求める結果となった。
三重県立富田中学校(三重県立四日市高等学校の前身校の1つ)を経て、第一早稲田高等学院に入学。本来は父の跡を継いで僧侶となるために、浄土真宗系の上級学校に進学するべきところであったが、文雄はすでに文学者を志望していたため、父や檀家には、仏教に関連の深い哲学科に進学するためと偽って、同校へすすんだ。
高等学院在学中に、上級生の尾崎一雄と知り合い、文学面でも大きな感化を受け、さらに尾崎の紹介で火野葦平らが発行していた同人誌『街』に加わり、小説「秋」を寄稿した。『街』の廃刊後は、尾崎らと同人誌『新正統派』を創刊し、精力的に小説を発表した。
1929年早稲田大学文学部国文科を卒業後、生家の寺で僧職に就く。同人誌『新正統派』に発表した小説「朗かなある最初」が永井龍男によって評価され、その依頼で書いた「鮎」が文壇で注目され、僧職を捨てて上京し、早稲田大学時代の同棲相手の家に住んだ。新進作家として注目され、『中央公論』や『文藝』の新人特集に『贅肉』『百日紅』が相次いで掲載された〔、丹羽文雄 尾西康充、Chronicle of Mie 3号、三重大学、2009,1〕。
戦時中は海軍の報道班員として重巡洋艦鳥海」に乗り組み、第一次ソロモン海戦に従軍、その見聞を小説「海戦」にまとめた。
戦後は東京・銀座などを舞台とした風俗小説が人気を博し、一躍流行作家となるが、中村光夫から「風俗小説」として批判され、論争となった。50くらいまでは私小説的な作品が多かったが、50を過ぎてから、恋愛を中心とした長い小説を書くようになる。また『小説作法』はベストセラーとなり多くの文学青年に読まれた。
一方、執筆に行き詰りを感じていた時に亀井勝一郎から「(丹羽の小説は)親鸞から逃れようとしているが、結局は親鸞の足元で遊んでいる」と指摘されたことをきっかけに自らの宗教観について付き詰めて考え始め〔NHKラジオアーカイブ丹羽文雄インタビュー「自作朗読『顔』、文学と私」(1968年12月20日収録送)本人談〕、のちに『親鸞』『蓮如』などの宗教者を描いた小説を多く残した。文壇の大御所的存在で、後進との交流にも熱心であった。1950年代には同人誌『文学者』を主宰、瀬戸内寂聴吉村昭津村節子たちを育成した。また舟橋聖一とは自他共に認めるライバル関係だった。1956年から日本文藝家協会理事長、61年会長を兼任、69年理事長を辞任し、72年まで会長を務めた。
1977年文化勲章受章、文化功労者

1987年から1990年にかけてアルツハイマー型認知症の症状が表れたことから、多数務めていた役職を整理し、表舞台から退いた。1997年に娘・本田桂子が瀬戸内寂聴のすすめで、『婦人公論』に病気の経緯と11年に渡る介護についての手記を公表・出版〔『父・丹羽文雄介護の日々』、中央公論社 1997年、中公文庫 1999年〕 し話題となった。献身的な介護生活を続けながら、桂子は全国各地に講演・提言に行くなど、多忙な日々を送っていたが、2001年4月に桂子自身が先に急逝してしまった〔続編の介護記を「論座」に連載していた。遺著として2001年11月に、『娘から父・丹羽文雄へ贈る朗らか介護』が、夫・本田隆男の協力により朝日新聞出版で出版された。また2000年11月には、主婦の友社から『父・丹羽文雄老いの食卓』を刊行している。〕。以降は孫たち等による介護を受けていた〔最晩年に、孫の一人丹羽多聞アンドリウが「作家・丹羽文雄99歳の日常」を、『月刊文藝春秋』2003年12月号に寄稿している。没後も、回顧談で「丹羽文雄―死ぬのはむずかしい」を2008年2月号の同誌に寄稿している、また2009年3月には、四日市の『記念室』で「我が祖父を語る 素顔の丹羽文雄」を講演している。〕。  

2005年4月20日午前0時25分、肺炎のため自宅で逝去した。当時最年長の日本芸術院会員であった。。
故郷の三重県四日市市の四日市市立博物館には『丹羽文雄記念室』が設けられ、丹羽文雄の文学に触れられるようになっている〔
〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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