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丹羽 氏勝(にわ うじかつ、大永3年(1523年) - 慶長2年11月22日(1597年12月30日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。源六、右近とも。父は丹羽氏識。子に丹羽氏次、丹羽氏重、娘(加藤忠景室)など。継室は織田信秀の娘。岩崎城主。岩崎丹羽家の祖は一色氏で、一色氏明が尾張国丹羽庄に定着し、地名をとり丹羽氏を称した。なお、同じ織田家臣の丹羽長秀の児玉丹羽氏とは血縁関係はない。 天文24年(1555年)、守山城主・織田信次の家臣・洲賀才蔵が織田信長の弟・秀孝を殺害する事件が起こる。信次は信長の怒りを恐れ逃亡したが、信次の家臣団は守山城に立て篭もり、その中に岩崎丹羽源六(氏勝)の名がある。信次の家老・角田新五の謀反の際にも名が見える〔太田牛一 『信長公記』 「勘十郎殿、林・柴田御敵の事」〕。それ以降は信長の直臣となった。 永禄12年(1569年)、伊勢大河内攻めに加わる〔『信長公記』 「阿坂の城退散の事」〕。元亀元年(1570年)6月、近江国で姉川の戦いに参戦したのち、同年8月、野田・福島攻城戦の一員になる〔『信長公記』 「野田福島御陣の事」〕。同年9月、浅井・朝倉軍挙兵の報に接し坂本に移動。そのまま比叡山の攻防にも加わる〔『信長公記』 「志賀御陣の事」〕。天正3年(1575年)、越前攻めに参戦。天正5年(1577年)2月、信長に従って紀伊国雑賀攻めに加わる。 天正8年(1580年)4月24日、信長が鷹狩のために伊庭山に訪れたとき、氏勝の配下が大石を切り出す普請をしていたが、配下は手元が狂い信長の通り道先に大石を落としてしまった。信長は怒り、氏勝の家来一人をその場で手討ちにした〔『信長公記』 「能登・加賀両国、柴田一篇に申し付くるの事」〕。 同年8月、林秀貞・安藤守就と共に、突然信長より追放される。理由は先年信長に逆心を抱いたためという〔『信長公記』 「宇治橋御見物の事」〕。 その後は各地を転々とするが、信長の死後には次男・氏重の居城である傍示本城に戻り、余生を過ごした。慶長2年(1597年)、75歳で死去。 == 関連項目 == *信貴山城の戦い 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹羽氏勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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