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丹羽 秀重(にわ ひでしげ、? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての戦国武将。通称は九兵衛。 == 生涯 == 織田家臣丹羽長政の三男として尾張国に生まれる。兄は、織田信長の重臣として高名な丹羽長秀である。 秀重は兄の長秀、甥の長重の2代にわたって仕え、5千石の禄を与えられ、江口正吉、坂井直政、大谷元秀らと共に宿老の一人として主家を支えた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに伴う北陸の動乱では、丹羽家の本拠である小松城の留守居や、前田利長との和睦交渉を担当した。戦後、丹羽家が改易されてからも長重の許を離れず、大谷元秀、丹羽忠政(通称掃部介、長重の従兄弟)らと共に謹慎する主君に付き従った。 慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、秀重は70過ぎの老体ながら丹羽家の武将として参陣し、鴫野の戦いでは手傷を負いつつも奮戦した。さらに翌年、慶長20年(1615年)の夏の陣では、八尾・若江の戦いで木村重成隊の先鋒である木村宗明の備を突き崩すなどの活躍を見せたが、翌日の天王寺の戦いで戦死してしまう。しかし、この戦功によって丹羽家は江戸崎2万石に加増され、のちに二本松10万7百石へと累進するきっかけとなった。 秀重の事績は歴代藩主の菩提寺である大隣寺に碑銘として刻まれ、二本松藩世臣伝では「当家絶類忠臣也」と評されている。 家系は藩の重臣として代々続き、幕末には丹羽一学を輩出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹羽秀重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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