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乃木 希次(のぎ まれつぐ )は、幕末の武士。長門国長府藩定府藩士。乃木希典の父。石高は初め80石、後に150石。一時期50石に減俸。小笠原流の松岡辰方(清助)門人。のちの長州藩主毛利慶親の嗣子毛利定広の妻、銀姫(後に安子と改名)の守役や、藩の諸礼法師範、藩校敬業館の講師を勤める。 == 経歴== 文化2年(1805年)、乃木宗家の分家である長州藩士乃木希建の四男として誕生。母は小田原藩士野村利久(才右衛門)の娘〔『乃木大将事跡』の系図参照。しかしながら、野村氏は同系図で1794年(寛政6年)6月4日に死去しており、希建の後妻、吉村氏の娘の竹が実母の可能性がある。〕。なお、分家の乃木家も侍医の家であった。 文化6年(1809年)、本家である乃木周久(隆玄)の養子になっていた兄希幸(惣吉)の死去に伴い、その養子となって乃木本家を相続する。文化13年2月28日(1816年)、深川三十三間堂の通し矢を射、これを賞した藩主毛利元義の命により藩医を解かれ、禄高80石の御馬廻に編入される。 後に毛利元運の娘、銀姫の守役となり、安政5年(1858年)1月の銀姫と長州藩養嗣子定広との婚礼一切を取り仕切る。同年2月、政務に関する建白書を提出したことで藩主の忌諱に触れ、帰藩を命じられる。同年12月、長府外浦に到着し、閉門100日と50石への減禄を命じられる。 閉門が解かれて後、100石を給されて再仕し、長府藩藩校の敬業館で藩主毛利元周の養子毛利元敏とその実弟毛利元功に礼法及び武芸を授ける。元敏、元功兄弟が長州藩藩校の明倫館に移った際に同行している。慶応元年(1865年)、藩首脳部と対立して切腹した泉十郎の処置に立腹した長府藩報国隊の桂弥一が脱藩して吉田駐屯の奇兵隊に投じた際、説得して帰藩させている。 明治7年(1874年)に家族とともに東京に戻り、東京の乃木家と同居。明治10年(1877年)10月31日、東京で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乃木希次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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