翻訳と辞書 |
久世広之[くぜ ひろゆき] 久世 広之(くぜ ひろゆき、慶長14年(1609年) - 延宝7年6月25日(1679年8月1日))は、江戸時代前期の大名。若年寄、老中。下総関宿藩主。関宿藩久世家初代。 5000石の大身旗本久世広宣の三男。母は今川家家臣奥原経重の娘。兄弟に広当、勝宣、重利、大久保忠当室など。正室は戸田忠能の養女(戸田忠次の娘)。子に重之(三男)、娘(遠山友貞正室)、娘(松平重治正室)、娘(内田正衆正室)ら。養子に広次(甥、兄広当の子)。官位は従五位下大和守。 == 生涯 == 元和8年(1622年)に2代将軍徳川秀忠の小姓となり、寛永元年(1624年)に3代将軍徳川家光の小姓となる。寛永3年(1626年)に父の遺領を継いだ兄広当から下総海上郡内500石を分与され、寛永12年(1635年)に徒頭、翌13年(1636年)に従五位下大和守に叙任された。寛永15年(1638年)に小姓組番頭に任じられ、寛永18年(1641年)に4500石加増、正保3年(1646年)、家光の拝謁のため長崎から江戸に到着したオランダ商館館長レイニール・ファン・ツムと面会。2年後の慶安元年(1648年)に5000石加増、1万石の大名となる。 承応2年(1653年)9月、土屋数直・牧野親成と共に4代将軍徳川家綱の側衆となる。万治2年(1659年)に5000石加増、寛文2年(1662年)に若年寄となり更に5000石を加増された。寛文3年(1663年)に老中となり、翌寛文4年(1664年)に2万石を加増された。寛文6年(1666年)、諸国山川掟を発する。寛文9年(1669年)に1万石加増。下総関宿5万石を領した。 延宝7年(1679年)死去。享年71。跡は三男の重之が継いだ。墓所は東京都豊島区の本妙寺。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久世広之」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|