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== 杭(久井)の始まり 〔久井民俗資料館記念碑より〕== 今から千年以上もの昔、平安時代天暦5年(951)頃、牛馬商人が一頭の牛を稲生神社神域の室山(亀甲山:現在の「牛山公園」)で商った。 その牛はことのほか生育が良く、「これはひとえに久井稲生神社の御神徳によるもの」と信じ、室山で牛馬の売買をする者が次第に多くなっていった。 平安時代応和元年(961)頃、室山に伯耆大仙神社大明神を勧請した。応和3年(963)頃から、多数の牛馬商人が参集し、牛馬の売買が盛んとなり 久井牛馬市の基礎が定まったと伝えられている。 江戸時代延宝8年(1680)久井牛馬市は、広島藩の公認となり中国・四国地方はもとより、近畿・九州・北陸地方からも承認が大勢集まった。 この頃から備後「杭の牛市」は豊後(大分県)の「浜の牛馬市」、伯耆(鳥取県)「大仙の牛馬市」と共に日本三大牛馬市の一つとして広く知られるよう になった。 明治時代になってから、市場開催日が一回から三回になり、昭和の初め頃までは一万数千頭の牛馬が集まり、大変な賑わいであった。しかし、 農作業の機械化などの急激な社会情勢の変化により次第に衰退に向かい、昭和39年(1964)に千年以上続いた歴史に幕を閉じることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久井町」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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