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久居焼 : ウィキペディア日本語版
久居焼[ひさいやき]
久居焼(ひさいやき)は、三重県久居市(現在の三重県津市)の焼き物。通称ではちゃわん焼と呼ばれていた。〔久居市史191頁 〕
==歴史==
万延元年1860年)久居市本町の上住七兵衛と上島弥兵衛の2人によって、飛び地の川方村大口で久居焼が開始された。自衛隊久井基地前から高茶屋に至る現在の井戸山町で、江戸時代は周辺は一面の松林の山中であった。現在の旧道沿いの北側の台地で、台地の南斜面に登り窯をつき、創業以来この奥の谷から土を採集していた。〔久居市史192頁1行目~6行目 〕
二代目上島岩吉の時代に、この焼き物を更に改善して所々の土を採集して研究した結果、高茶屋村カワラケ野に土質の良い粘土を発見して、この土と奥の谷の土を調和して使用していた。その結果、非常に堅牢な焼き物が完成して、日本各地からその引き合いも増加して明治末期には三重県津市、三重県松阪市、三重県伊勢市から愛知県名古屋市三河地域、遠江地域、駿河地域にも販路を拡大できた。〔久居市史192頁7行目~12行目 〕
窯は幅一間(1.81m)長さ四間(7.2m)位の登り窯が17基あり、最盛期には職人20人位が働き1ヵ月に1回窯出しをして、100俵の陶器を半分は地元久居市・津市・伊勢市・半分は津市の築地から名古屋方面へ船出しをしていた。〔久居市史192頁13行目~15行目 〕
久居焼は主要な使用方法は日用茶碗、丼物や茶器、花器の実用品で、粘土が固くて乾燥すると1尺のものが、8寸になってしまったエピソードがある。このような陶器であるから花器の水持ちが良くて、輪を書くというものがなくて重宝がられていた。〔久居市史192頁16行目~18行目 〕
久居焼は初代上島弥兵衛、二代目上島岩吉、三代目政蔵、四代目村田菅一にわたり82年間久居の名産の1つになっていた。〔久居市史192頁19行目 〕
==上島弥兵衛==

*上島弥兵衛(1820年1875年)は久居焼の創設者。滋賀県信楽の人物で幼少期から陶器製作を志望して、各所で修業した。嘉永四年31歳の時に三重県四日市市に来た。しかし阿倉川の土質が悪かったため加太に引っ越して焼き物を開始した。当時飯南郡射和村の庄助は焼き物の失敗が続いて苦境にあり、これを聞いた射和の豪商竹川竹斎は弥兵衛を招いて焼き物作りを依頼した。弥兵衛は加太村を他人にゆずり、射和の棟梁として苦心して焼き物を完成させた。射和万古焼の始まりである。弥兵衛は射和万古焼から新規独立して竹川氏の反対を押し切り津市に出て、藤堂和泉守の命で現在の津公園御山荘山に釜を建設する計画があったが、竹川氏の反対で計画が中止となり、同時に射和万古焼も中止となった。弥兵衛はこの計画の失敗に屈せず、藤堂家家臣の近藤の保護と倉田久子八の出資で津船頭町で窯を建設した。これが阿漕焼の元祖で万延元年の春であった。その後久居大口山に良い土質があるのを発見し、同年10月久居本町の上住七兵衛と2人で窯を開いた。これが久居焼の始まりである。弥兵衛は両所の窯を管理して、焼き物製作に励み阿漕焼・久居焼の名は次第に高まっていったが、明治元年の上住の死亡のため阿漕焼を倉田久八に託して、後年は久居焼の製作に専念した。明治8年に55歳で没する。〔久居市史1931頁〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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