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久我長通 : ウィキペディア日本語版
久我長通[こが ながみち]

久我 長通(こが ながみち)は鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。後中院太政大臣と号す。従一位太政大臣。父は太政大臣久我通雄、母は源仲基の娘。子は太政大臣に至った久我通相
== 経歴 ==
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『園太暦』、『花園天皇宸記』の記事に従って記述する。
弘安9年(1286年)2月29日、叙爵。弘安11年(1288年)1月5日、従五位上に昇叙、同年4月7日侍従に任ぜられ、同年11月25日には正五位下に昇叙。正応3年(1290年)9月5日、従四位下に昇叙。正応5年(1292年)2月27日、左少将に任ぜられる。正応6年(1293年)1月5日、従四位上に昇叙、同年4月8日には左中将に転任。永仁2年(1294年)1月6日、正四位下に昇叙、同年3月27日には信濃介を兼ねる。
永仁5年(1297年)閏10月5日、従三位に叙され左中将は元の如し(同年に祖父通基は従一位に叙され、父通雄は内大臣となった)。永仁6年(1298年)10月10日、正三位に昇叙。永仁7年(1299年)3月24日、但馬権守を兼ねる。正安3年(1301年)11月18日、従二位に昇叙、同年12月6日、左中将は元の如し。正安4年(1302年)9月25日、参議に任ぜられ、左中将と但馬権守は元の如し。改元後の12月22日、権中納言に転任。延慶元年(1308年)11月8日、正二位に昇叙。
延慶2年(1309年)8月10日、権大納言に転任。正和2年(1313年)9月6日、権大納言を辞任。以後、前権大納言の状態が続いた〔『園太暦』延慶4年2月23日の条にあるように父通雄から義絶されたことが原因と考えられる。〕〔『公卿補任』によれば、同年11月には前年に誕生した通定が叙爵され侍従に任ぜられている。〕。元亨3年(1323年)9月28日、正の大納言に還任〔『公卿補任』によれば勅により還任したとある。〕〔『花園天皇宸記』9月29日の条には、父通雄に義絶されていたが正大納言に還任した、とある。これは義絶していたのを悔い返したのか、と不審に思う記述がある。〕。正中元年(1324年)同年中に大納言を辞したか。元徳元年(1329年)9月26日、権大納言に還任し、左大将を兼ねる。
元徳2年(1330年)2月26日、内大臣に任ぜられ左大将は元の如し〔『公卿補任』の同日の条によれば淳和奨学両院別当を兼ねていたか。〕直後の3月5日には着陣拝賀を済ませずに内大臣と左大将を辞した。同日に従一位に昇叙。元徳3年/元弘元年(1331年)2月1日、右大臣に任ぜられ、同年11月8年には春宮傅を兼ねる。正慶元年/元弘2年(1332年)7月13日、右大臣と春宮傅を辞した。元弘3年(1333年)6月12日、還任宣下があり右大臣に還任。建武元年(1334年)2月22日、右大臣を辞し、同年12月17日には刑部卿に任ぜられる。建武4年/延元2年(1337年)7月20日、刑部卿を辞した。
暦応3年/興国元年(1340年)12月27日、太政大臣に任ぜられる。暦応4年/興国2年(1341年)1月18日、奨学院別当と源氏長者になる。暦応5年/興国3年(1342年)2月29日、太政大臣と奨学院別当を辞した。文和2年/正平7年(1353年)8月27日、赤痢のため薨去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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