翻訳と辞書
Words near each other
・ 久留島通孝
・ 久留島通容
・ 久留島通政
・ 久留島通方
・ 久留島通明
・ 久留島通春
・ 久留島通清
・ 久留島通用
・ 久留島通祐
・ 久留島通簡
久留島通胤
・ 久留島通重
・ 久留島通靖
・ 久留島長親
・ 久留米
・ 久留米 - 北九州線
・ 久留米 オン・マイ・マインド
・ 久留米 大砲ラーメン
・ 久留米つつじマーチ
・ 久留米インター


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

久留島通胤 : ウィキペディア日本語版
久留島通胤[くるしま みちたね]
久留島 通胤(くるしま みちたね、文政11年12月17日1829年1月22日)- 安政6年11月30日1859年12月23日))は、豊後国森藩の第11代藩主。
第8代藩主・通嘉の七男。第9代藩主・通容の弟。子に久留島通靖(長男)、久留島通簡(次男)、千勢子(伊東祐麿室)。官位は従五位下、信濃守。
嘉永5年(1852年)2月16日、甥(異母兄との説もある)で先代藩主の通明が病を理由に隠居したため、その跡を継いだ。嘉永6年11月7日、従五位下信濃守に叙任する。同年、ペリーの来航で国内が混乱すると、通胤は幕府に対して諸藩の意見を広く求めるべき、と薦めている。しかしそれが原因で幕府に疎まれ始め、安政元年(1854年)に勤王的な藩士2名が脱藩すると、幕府から嫌疑をかけられることを恐れて老臣5名を辞任させ、幕府に謝罪するなど、開明的ではあったが小藩さながらの力の無さを露呈させてしまった。安政2年12月29日、禁裏造営の手伝いを命じられる。安政6年(1859年)11月、32歳で死去し、長男・通靖が跡を継いだ。法号は叡泰院。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「久留島通胤」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.