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久野氏 : ウィキペディア日本語版
久野氏[くのし]

久野氏(くのし、くのうじ)は、日本氏族遠江国国人衆が著名。「久能氏」とも呼ばれる。
== 概要 ==
鎌倉時代工藤清仲の子久野宗仲が遠江国久野に住したことに始まる。藤原南家為憲流と伝わるが確証(系図も複数あり)はなく、秦氏流ではないかとも言われている。代々今川氏に仕えていた。
宗隆は、久野城(現・静岡県袋井市鷲巣字上末本)を明応年間に築城し居城とし、子の元宗宗経桶狭間の戦いで討死すると、その弟宗能は、今川氏真を見限り、徳川家康に臣従し、高天神城の戦い小牧・長久手の戦いなどに戦功を挙げ、天正18年(1590年)徳川家康が北条氏の旧領の関東に移封され、宗能は、下総国佐倉藩13,000石が与えられた。
宗能の嫡子宗朝は、慶長元年12月5日(1596年)、将軍徳川秀忠上洛に供して京に滞在していた時、私怨から刃傷に及び、同じ徳川家臣の三宅正次を殺害して改易処分となった。この時、隠居した宗能に1,000石が与えられ再勤することとなり、関ヶ原の戦いの戦功で8,500石が与えられ、旧領久野に復した。
慶長14年(1609年)に宗能が没し、宗朝の次男宗成(丹波守)が嫡孫相続し、元和5年(1619年)に徳川頼宣の家老、田丸城代となり、2,500石加増をされ、伊勢国田丸城10,000石を拝領し、紀州藩田丸領60,000石も併せて管理した。
久野氏は宗成の後、宗晴宗俊俊正俊純輝純昌純純固と続き、明治維新を迎えた。また、久野氏は、代々和歌山城下に屋敷を構え政務をとったため、一族を名代として派遣していた。一方で除封となった久野宗朝の三子宗次が召し出され、600石の旗本となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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