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乙巳五賊(いっしごぞく)とは、日本による韓国支配を確立させる保護国化を定めた第二次日韓協約(1905年、干支で乙巳)に賛同した韓国(大韓帝国)の五名の閣僚を、批判して言った言葉である。 ==概要== * 李完用 - 学部大臣〔文部大臣のこと。〕 * 李根沢 - 軍部大臣 * 権重顯 - 農商工部大臣 * 李夏栄 - 法部大臣 / または朴斉純 - 外部大臣 * 李址鎔 - 内部大臣 (官職はいずれも締結時のもの) 明治38年11月17日、参政大臣〔議政府参政大臣の略。大韓帝国の首相。〕韓圭卨は、特別大使の伊藤博文が、全権大使林権助と駐留軍司令官長谷川好道を従えて厳しく締結を迫ると、泣き出してしまったが、李完用は韓帝(高宗)の上意であるとして、上記の五名に閔泳綺(度支部大臣〔財務大臣のこと。〕)を加えた六名で外交文書の作業を進めて、外部大臣の朴斉純が締結文書に署名した。こういった経緯から、五名の中に閔泳綺や朴斉純を含める場合があるが、両名は同条約には反対であったという。五賊とされているが、結果的に閣僚八名が関わった。 前軍部大臣の閔泳煥〔閔妃の甥にあたる。〕は五名を「売国奴」「誤国賊」と呼んで弾劾書を上奏して高宗に破約を進言したが拒否されたので、同月30日に毒を仰いで自殺した。韓圭卨は世論を喚起して反対を続けたために失脚し、伊藤の推挙で李完用が代わって登用された。 第二次日韓協約の締結以後、乙巳五賊暗殺団の組職、1905年の李址鎔の邸宅の放火、1907年の権重顕の被撃、1909年の李完用の被襲といった暗殺の試みがあったが、すべて失敗した。現代の韓国においては、チニルパ(親日派、売国奴)とされ、政治的な忌避の対象となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乙巳五賊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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