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九国志[きゅうこくし] 『九国志』(きゅうこくし)は、北宋の路振が著した十国の歴史書。『十国志』(じっこくし)とも呼ばれる。元は51巻、現行本は12巻。 == 概要 == 路振は真宗時代の知制誥。契丹への使者などを務めた〔路振の詳しい伝記は『宋史』巻411(列伝第200 文苑3)にある。〕。その彼が呉・南唐・呉越・前蜀・後蜀・東漢(北漢)・南漢・閩・楚の9か国の君臣の事績を集めて世家・列伝49巻を編纂したが、完成をみずに1014年に58歳で没した。その後、1061年になって孫の路倫が北楚(荊南)2巻分を補い、1064年に朝廷に進献した〔李燾『続資治通鑑長編』巻202、治平元年6月条。〕。その後、詔によって史館に納められ、張唐英によって改めて北楚2巻などを増補したという〔王応麟『玉海』巻48。〕。刊本はなく、その後散逸していたが、清の邵晋函『永楽大典』などに所収されている分から136名〔呉40名・南唐1名・呉越5名・前蜀18名・後蜀27名・東漢5名・南漢8名・閩8名・楚19名・北楚1名。〕の伝を抜きだし、それを周夢棠が12巻(呉臣伝のみ3巻、他は1巻ずつ)としたのが現行本である。正史である『旧五代史』・『新五代史』に見えない記述も含んでおり、史料的価値が高い。 最終的に十国の伝記が納められたことから、『十国志』という名称も用いられた〔が、路振の原題がそのまま用いられ、『九国志』と呼ばれるのが普通である。この「九国」の表現については、前蜀と後蜀を合わせたものとする説〔もあるが、通説では北楚(荊南)を除いたとされている。これについて、山崎覚士は、「十国」が確認される最古の事例は1053年に完成した欧陽脩の『新五代史』(当時は『五代史記』)であり、欧陽脩が活躍した仁宗期以前には地方政権を総称して「十国」と呼称する概念がなかったとし、それ以前の荊南は自立した国家とはみなされずに中国(五代王朝)の節度使として扱われていたため、路振は当時の認識に従って「九国」の事跡を記すのみであったとしている〔反対に欧陽脩とほぼ同時代の路倫・張唐英は、欧陽脩あるいは当時の歴史観の影響を受けて、北楚(荊南)を欠けていると捉えて増補したと考えられている。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九国志」の詳細全文を読む
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