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3100形は、かつて日本国有鉄道およびその前身たる鉄道院・鉄道省に在籍したタンク式蒸気機関車である。 ==概要== アメリカのアメリカン・ロコモティブ社(アルコ)から輸入された、車軸配置2-6-2 (1C1) の単式2気筒、飽和式のタンク機関車である。製造は、スケネクタディ工場。元は、九州鉄道(初代)が1906年(明治39年)に24両(製造番号41290 - 41313)を導入したもので、同社では228形 (228 - 251) とされた。九州鉄道は1907年(明治40年)に国有化され、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程では、3100形 (3100 - 3123) に改称された。 本形式の特徴は、非常(あるいは過剰)に大きな水槽容量 (11.36m³) 〔この数値は、日本最大のタンク機関車であるE10形 (8.6m³) や、テンダー機関車であるC56形 (10.0m³) よりも大きかった。〕と自重(公称59.9t)にある。側水槽は背が高く、シリンダ直後から運転台までの間におよぶ巨大なものである。また、側水槽だけでは容量が足らず、運転台両側の床下にも水槽が設けられている。これにより、長距離走行と強大な粘着力が得られたであろうことは間違いないが、成立の経緯から施設が貧弱であった九州鉄道では、軸重が過大で線路や橋梁等に与える悪影響が大きかった。 1914年(大正3年)の実測によれば、運転整備重量69.6t、動輪上重量51.9t、各軸の軸重は第1動輪から16.8t、18.3t、16.8tであり、第2動輪の軸重18.3tは国有鉄道に在籍した機関車中空前絶後の大きさであった〔後年、主要幹線用に製造された、C53形で15.44t、C62形で16.20t、D52形で16.28tである。〕。このような過大な重量を持つ機関車になったのは、メーカー側で何か計算の間違いがあったとしか考えられない。 国有化後は、当然軸重軽減対策が検討され、1918年(大正7年)に小倉工場で水槽の容量を7.3m³に縮小し、運転台後部の石炭庫も背を低くして4.5tから1.5tに改めた。これにより側水槽の長さは第1動輪中心上から運転台前までとされ、背も若干低くして前部上方を大きく斜めに切り取ったため、外観に大きな変化を生じた。動輪上重量は41.9tに、最大軸重も14.1tに軽減されている。しかし、運転台下部の水槽については、本工事後もそのままであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国鉄3100形蒸気機関車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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