|
九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。 五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった藤原兼房、天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。 == 生涯 == === 有職の公卿 === 久安5年(1149年)、摂政・藤原忠通の六男として生まれる。母の身分は低かったが、異母姉である皇嘉門院の猶子となり(『兵範記』保元元年正月4日条)、保元3年(1158年)には兄・基実の猶子の資格で元服、正五位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。永暦元年(1160年)には従三位となり、公卿に列した〔母親の身分が低かった兼実に対するこうした破格の待遇は摂関家の分立(野村育世)あるいは藤原信頼の甥である近衛基通(基実の子)の排除(山田彩起子)を意図する忠通が、基実の後継者に兼実を立てる方針があったとする見方がある(山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』思文閣出版、2010年、第二部第一章脚注及び第三章)。〕。 保元の乱で勢力を後退させた摂関家は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図ろうとしていた。皇嘉門院の庇護を受けて兼実も学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として異母兄の基実・基房に次ぐ昇進を遂げる。長寛2年(1164年)に16歳で内大臣、仁安元年(1166年)に18歳で右大臣に進んだ。兼実は若年ながら公事・作法について高い見識を有し、特に左大臣・大炊御門経宗の作法については違例が多いと厳しく批判している。しかし、兼実の官職はこの時から20年間動くことはなく、永らく右大臣に留まった。これは欠員が出ず昇進が頭打ちになったこともあるが、所労・病悩を訴えて朝廷への出仕が滞りがちだったことも要因の一つとして考えられる〔兼実の所労・病悩は安元の大火や鹿ケ谷の陰謀など、朝廷の危急大事の時に起こる頻度が高く、かなり恣意的な部分があったのではないかという指摘もある(加納重文「治承の兼実」『女子大国文』120、1996年)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九条兼実」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|