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九段下ビル[くだんしたびる]
九段下ビル(くだんしたビル)は、東京都千代田区神田神保町3丁目にかつて存在した雑居ビルである。旧称は今川小路共同建築。南省吾が設計し、関東大震災の復興助成を受けて1927年に竣工した耐火建築の店舗併用住宅。同潤会アパート・復興小学校・聖橋などと並び、震災後の東京のランドマークになった。鉄筋コンクリート造の中規模ビルディングで、1階は路面店舗、2階には商店主の居宅、3階は貸事務所という配置であった。屋上付帯設備を含め地上4階建てで、磁器タイル仕上げとなっていた。これは、当時の小規模ビルディングの特徴をよく伝えている。 == 入居者 == 耐火建築助成を目的とした公的資金融資の日本初の実施例となった「復興建築助成株式会社(自主的に耐火建築を行おうとする市民に建設費を融資し、耐火建築化を促進する建築会社)」事業に基づき、狭小な敷地において耐火建築を実現するのに最適な方策として、共同建築(連続する幾つかの土地の使用権者が共同して建てる建築)が推奨された〔災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災【第3編】、内閣府、平成20年3月〕。「今川小路共同建築」はその共同建築第一例であり、当地の元借地人であった8人が土地を買い取って共同建築主となり、助成会社の助言により、店舗と住居(1、2階メゾネット)のほか、貸室経営を行うための上階(3階)を設ける設計となった〔。 関東大震災で被災した近隣の商店主達が共同出資して組合を作り、復興助成会社による低利融資を受けて建設された震災復興建築の一つであり、当初は出資額に応じて持ち分が割り振られていた。看板建築の個人商店が立ち並ぶ町を立体化することで、土地の有効活用や災害耐性の強化などを図る目論見で、同種の企画は他にも立てられていたが、商業施設兼用の復興住宅として実現に至ったのは九段下ビルだけであった。 1935年にはニットー・タイヘイ東京吹込處が置かれ、多くの流行歌がここで収録された。また戦後の昭和30年代以降、大原簿記学校が当ビルに長らく入居していた。その後3階は区割りされ賃貸住宅に転用された。 このビルに最後まで居住していたのは画家の大西信之。解体工事が始まる直前の2011年12月末まで居住していた。後述の展示会も「このビルのことをもっと多くの人に知ってほしい」との思いから大西が企画したものである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九段下ビル」の詳細全文を読む
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