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乾岔子島事件 : ウィキペディア日本語版
乾岔子島事件[かんちゃずとうじけん]

乾岔子島事件(かんちゃずとうじけん)は、1937年昭和12年、康徳4年)6月19日黒竜江(アムール川)流域における黒河下流の乾岔子と金阿穆河(ちんあむほう)両島で起きた〔外務省 1937 p.18〕ソビエト連邦満州国間の国境紛争である〔『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 3面〕。実質的には日ソ国境紛争であった。
== 背景 ==
1860年に締結された北京条約ではロシアの国境は黒竜江とされ、黒竜江の主流は乾岔子、金阿穆河両島の北を流れているため国際公法上の通念から満ソ両国の境界線は主流、つまり両島の北側の水道の中心にあることから両島が満州国の領土であることに問題はなく、しかも古くから満州国人が農業・漁業・採金に従事する住民となっていた〔外務省 1937 pp.21-22〕。
満州国建国後においても1934年9月、黒河において満州国哈爾濱航政局とソビエト連邦アムール国立船舶局との間に結ばれた航行状況改善に関する協定の第五条に「河岸上に航行標識を設置する工事及其監督事項は双方各単独に於いて実施す」とあることから乾岔子島と金阿穆河島の標識は満州国が設け、満州国航政局員が常駐して標識の管理が行われ、ソビエトもこの事実を承知して何らの問題も起きていなかったが、後にソビエト側はこの協定を単なる汽船会社間の取決めで国際的な拘束力を持たないものだと抗弁したが国家官庁間の取決めであることに疑う余地は無かった〔外務省 1937 p.22〕。
ソ連の極東方面における軍備には航空機1200、戦車1200、装甲自動車600に加え、ウラジオストックを中心に小艦艇・潜水艦140隻、ハバロフスクには砲艦、砲艇等30隻余を擁するアムール小艦隊があり、兵力は約30万という優勢からその前線部隊の将兵や航空機の不法越境を試みることも常態化し、日本人・満州人を拉致し、不法射撃すら行うという極めて挑戦的な態度を示し、国境紛争の原因となっていた〔外務省 1937 pp.24-25〕。主な紛争事件だけでも1935年には136件、1936年には203件、1937年は6月までに86件に達していた〔外務省 1937 p.25〕。ソ連は1937年4月に満州国ソビエト連邦間協定の廃棄を通告後、黒竜江流域に散在する満州国領の内、要地である島嶼の不法占拠、ボヤルコワ水道閉鎖問題などの不法行為を繰り返し、満州国側の抗議に対しても逆に抗議を持ち出すなど国際信義を無視する挑戦的行動を行っていた〔〔特に事件の直前にはソ連の国内不安を和らげるためにソ連の国民の関心を対外問題にそらすことを意図して国境紛争による緊張を高めているかのごとく観測されていた(『東京朝日新聞』1937年6月27日付朝刊 3面)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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