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乾 正成(いぬい まさしげ、1802年(享和2年) - 1860年4月30日(万延元年閏3月10日)は、土佐藩士・乾庄右衛門信武の長男。母は谷村久之丞自熈の娘。板垣退助の父。 == 来歴 == 諱は初め信成(のぶしげ)、のち藩主山内豊信の諱を避け、正成と改める。幼名は魚之助。榮六(えいろく)、左賀江(さかえ)、丈右衛門、左近兵衛と称す。土佐藩馬廻格で、家禄300石。 *1807年4月3日(文化4年2月26日)、惣領御目見仰せ付けられる。 *1810年11月29日(文化7年11月3日)、正成9歳の時、亡父信武の跡目を無相違下し置かれる。 *痩せ気味の退助と違い、力士のような30余貫〔『板垣退助君傳記』による。〕の体格であった。 *1819年(文政2年)〔18歳の頃と言われる。〕頃、藩主がお忍び駕籠で領内視察をしていたのに気づかずに、乗馬したまま横切って泥を掛ける失態が噂となったため、改易となるのではないかと気に病んで乱心気味〔一説には難を免れるため乱心を装ったとも言う。〕の振る舞いがあったという。 *1843年(天保14年)、子女による不品行の責任を問われ、家禄270石に減ぜられる。 *1860年4月30日(万延元年閏3月10日)〔死亡日については、土佐藩届出文書、譜類は全て「閏3月10日」であるが、墓碑・過去帳類は「閏3月3日」である。〕卒去。年59歳。土佐国土佐郡薊野山に葬る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乾正成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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