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乾正直 : ウィキペディア日本語版
乾正直[いぬい まさなお]
乾 正直(いぬい まさなお、生年不詳 - 1688年8月21日貞享5年7月26日))は、江戸時代前期の土佐藩上士
板垣流乾市郎兵衛家の初代。通称は市郎兵衛。家紋は「榧ノ内十文字」。
== 来歴 ==

土佐藩上士馬廻格・300石)乾正行(金右衛門)の二男として高知城下(現高知県高知市)に生まれる。
母は毛利治郎右衛門の娘。
1644年正保元年)、土佐藩主山内忠義によって各段召し出され、新御小性、5人扶持切府10石を下し置かれた。
1661年2月14日万治4年1月15日)、後西天皇の御代、洛中(京都市内)の前関白二條邸から出火し、折悪く強風により火は禁裏仙洞御所へ燃え広がり、さらに九條公卿邸や、鷹司邸など190邸、寺院16宇、民家558軒の計693棟が類焼する大火が起きた〔この内裏火災が契機となって、元号が「寛文」に改元された。〕。乾市郎兵衛はこの禁裏炎上に伴い、土佐藩主山内忠豊より天機御伺御使者を仰せ付けられ、3月3日2月3日京都へ向けて出発した。京都到着後は御所との折衝にあたった。
1665年寛文5年)、土佐藩主山内豊昌参勤の御供を仰せ付けられて江戸へ下る。
1688年8月21日貞享5年7月26日)病死。
墓は高知城下の瑞応寺福泉院にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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