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乾 正祐(いぬい まさすけ)は、江戸時代前期の土佐藩上士。 禄高は500石。板垣支流乾氏の第3代。通称は與惣兵衛。家紋は「榧ノ内十文字」。 == 来歴 == 土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正行(金右衛門)の嫡男として高知城下(現高知県高知市)に生まれる。母は毛利治郎右衛門の娘。 土佐藩主山内忠義の時代に、父正行が老年に及び、かつ眼病(白内障)を煩った為、父を補佐することが屡々あり、願い出て父の健在なうちに家督を無相違下し置かれ相続した。 1650年1月20日(慶安2年12月18日)父正行が卒去。 1657年3月14日(明暦3年1月30日)、土佐藩主山内忠義の時代、伊予松山藩主松平定行への使者を仰せ付られて出発し、役目を果たして3月8日(旧暦2月5日)土佐に帰藩した。 1660年1月28日(万治2年12月16日)、慶安の変で嫌疑をかけられ約10年間、江戸に留まっていた紀伊和歌山藩の藩祖徳川頼宣が御国(紀伊)へ国入りする際に、山内忠豊から使者を仰せ付けられ、役目を果たし1月28日(旧暦12月28日)に土佐に帰藩した。 1663年(寛文3年)、柄弦御指物役を仰せ付けられる。1668年6月(寛文8年5月)、御弓知を仰せ付けられ役禄100石を下し置かれた。1671年12月(寛文12年1月)土佐藩主山内豊昌の時代、御弓知から鉄砲足軽知(役禄200石)に格上げされ 都合500石を治めた。 1672年7月6日(寛文12年6月12日)江戸で病死した。葬儀は芝の曹洞宗青松寺で行われ、墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山(現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)に建てられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乾正祐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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