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亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき)は、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡である。遮光器土偶が出土した遺跡として知られ、1944年(昭和19年)6月26日に国の史跡に指定されている。単に亀ヶ岡遺跡とも称される。 == 概要 == 右の写真の土偶モニュメントの背後は谷の間の湿地帯となっており、そこから数多くの遺物が出土した。 本遺跡は津軽平野の西南部の丘陵先端部に位置している。 この遺跡は、津軽藩の2代目藩主である津軽信枚が1622年にこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際に、土偶や土器が出土したことにより発見された。この地は丘の部分から甕が出土したことから「亀ヶ岡」〔甕の出る岡、瓶岡とも書く〕と呼ばれるようになったという。〔この間の事情は、弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(館野越本)に書かれている。また菅江真澄も1796年(寛政8年)7月2日に、亀ヶ岡で掘り出された土器類を見分し、『外浜奇勝』に意見を述べている。〕〔村越潔「青森県の黎明」19ページ(長谷川成一・村越潔・小口雅史・斎藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社 2002年3月)〕また、この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになった。亀ヶ岡城は造りかけの状態で一国一城令が出たため、やむなく廃城となった。 江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれていて〔1824年(文政7)から曲亭馬琴ら12人の文人による耽奇会で、各自が収集した亀ヶ岡土器や土偶を持ち寄って品評会が開かれていた。〕〔村越潔「青森県の黎明」19ページ(長谷川成一・村越潔・小口雅史・斎藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社 2002年3月)〕 遠くオランダまで売られたものもある。1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという。1889年(明治22年)学術調査が行われ、1895年(明治28年)と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われ、1980年(昭和55年)丘陵上や谷の部分の調査が行われた結果、遮光器土偶をはじめ土器、石器、木製品、漆器などとともに土壙跡26基が発掘された。しかし生活跡や遺構の調査は未発掘である。現在無断で発掘することは禁止されている。〔1879年(明治12)頃、発掘が始められた。1886年(明治19)遮光器土偶出土する。〕 津軽信枚は亀ヶ岡城の廃城後、そこに「大溜池」を造ったが、その近くに縄文館という施設があり、現在当遺跡から出土した遺物の多くが展示されている。大溜池は、亀ヶ岡城の堀として予定されたものであり、縄文館は亀ヶ岡城予定地であった。出土遺物中、最も著名で、この遺跡のモニュメントのモデルとなっている遮光器土偶は、個人の所蔵を経て、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。 縄文時代晩期には、この亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行する。これを亀ヶ岡文化〔ただし、標式遺跡は、岩手県大船渡市の大洞貝塚である。〕とも言う。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「亀ヶ岡石器時代遺跡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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