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__NOTOC__ 亀井氏、龜井氏(かめいし)は、日本の武家のひとつ。本姓は源氏、または穂積氏。家系は宇多源氏佐々木氏流を称するが、穂積氏流藤白鈴木氏の流れを汲むとも云われる。 == 歴史 == 亀井氏は紀伊国亀井〔牟婁郡(熊野地方)〕を発祥とし、宇多源氏の佐々木氏の流れを汲むとされるが、信憑性に乏しく、穂積姓藤白鈴木氏流の亀井重清の流れとする説もある。 亀井秀綱は尼子経久側近として仕えた事が確認できるが、その後一族は没落し、系譜等が不明となっており、その系譜は現在でも明らかとなっていない。 戦国時代に湯氏から養子に入った亀井茲矩は尼子氏に仕えるが〔中嶋 (1979) 169頁〕、尼子氏が毛利氏に滅ぼされると豊臣秀吉に仕えて因幡国気多郡鹿野(現在の鳥取県鳥取市)1万3500石を領することになる〔長尾 (2007) 304頁〕〔中嶋 (1979) 169頁〕。茲矩は秀吉から「琉球守」を称することを許された〔長尾 (2007) 304頁〕。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては東軍に属し、3万8000石に加増された。茲矩の子の政矩の代になると4万3000石に加増され、元和3年(1617年)には石見国鹿足郡津和野(島根県鹿足郡津和野町)4万3000石に転封となる。 天保10年(1839年)には筑後久留米藩主有馬頼徳の六男茲監が養子に入って津和野藩主に就任した。津和野藩は長州藩の隣藩という厳しい立場にあったが、時代の流れを見誤ることなく幕末維新期を乗り切った〔長尾 (2007) 304頁〕。茲監は明治新政府において宗教政策に大きな影響を及ぼすことになる〔中嶋 (1979) 169頁〕。 明治9年(1876年)には堤家から堤哲長の三男亀麿が茲監の養子に入り亀麿は茲明と改名して家督を相続した〔田中 (2007) 226頁〕〔長尾 (2007) 305頁〕。明治17年(1884年)には茲明は子爵に列せられ明治24年(1891年)には養父の茲監の功績により伯爵に陞爵した〔長尾 (2007) 305頁〕。 日清戦争においては茲明は日本初の従軍カメラマンとして300枚以上の写真を撮影した〔長尾 (2007) 306-307頁〕。しかし戦場における過酷な生活のために徐々に健康を害し明治29年(1896年)に死去する〔長尾 (2007) 307頁〕。 茲明の後を受けて伯爵となった茲常は式部官、主猟官、東宮侍従を歴任した。茲常の孫の久興は元衆議院議員である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「亀井氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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