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亀山 雲平(かめやま うんぺい、1822年2月11日(文政5年1月20日) - 1899年(明治32年)5月6日)は幕末から明治にかけ、姫路藩士、儒学者、神官、また教育者として活動した人物。名は初め恭吉、のち式毅、由之、敬佐、源五右衛門、美和、雲平を名乗る。号は曳庵、節宇。昌平黌に学び大目付として幕末期の藩政に携わるとともに、明治以後は姫路市灘に開いた「観海講堂」で後進の指導に尽くし「播磨聖人」と呼ばれた〔中嶋・中島(2007)、p.26〕。 ==生涯== ===生い立ち、修学時代=== 1822年(文政5年)、姫路藩士亀山百之、頼家夫妻の次男として姫路に生まれる。亀山家は曾祖父・成賢、祖父・成将、父・百之と学に親しみ、特に祖父と父は山崎闇斎門下(崎門学派)の朱子学を学んでいた〔中嶋・中島(2007)、p.26〕。こうした環境で幼い頃から父から学問の手ほどきを受けるが、父・百之は1831年(天保2年)、雲平10歳の時に死去する。 1832年(天保3年)からは藩校・好古堂に入り、角田心蔵に師事する。また姫路藩家老・河合寸翁が開いた仁寿山黌にも学んだ〔中嶋・中島(2007)、p.27〕。 1843年(天保14年)、兄・剛毅が急死し、悲嘆に暮れつつも亀山家の家督を相続し、140石を受ける。その後も学問に励み、同年には藩主・酒井忠宝より金5両を拝領したほか〔中嶋・中島(2007)、p.27〕、1846年(弘化3年)12月には25歳にして好古堂助教授に任ぜられている。 1850年(嘉永3年)、藩の抜擢を受けて江戸に上り、昌平黌(昌平坂学問所)で学ぶこととなる。昌平黌では佐藤一斎の門下につき、全国から集まった秀才たちの中で頭角を現し、のちの教育者としての素地を形づくる〔中嶋・中島(2007)、p.27〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「亀山雲平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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