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二上山城(ふたがみやまじょう)は鳥取県岩美郡岩美町岩常に存在した日本の城。南北朝時代から室町時代中期にかけての因幡国の守護所だった。 == 歴史 == 南北朝時代に因幡守護となった山名時氏によって、文和年間に二上山山頂に築城されたと伝えられる。二上山城が因幡守護所とされた理由については、次の4点が考えられる。 ::1.荒金・法正寺・銀山・岩常から産出する金・銀・銅資源の掌握と管轄。 ::2.山陰道のおさえ。 ::3.山麓の小田川を通じての水運の利用 ::4.天険を利用しての軍事拠点 因幡民談記によれば、5代守護の山名勝豊の1466年(文正元)に国の中央、布勢の天神山に守護所が移されたと伝えられる。ただし、新たな因幡守護所である布勢天神山城が山名勝豊によって築かれたとする説は、現在ではほぼ否定されている。15世紀後半から16世紀前半にかけて、守護所の機能が二上山城から布勢天神山城へと移行したのは確実であるが、その年代については今後の研究を待ちたい。 守護所が布勢天神山城へと移ったのち、二上山城と岩常の集落は荒廃した。特に因幡山名氏が滅びてからの治安の悪化を憂いた村民は但馬山名氏(山名の総領家)に窮状を訴え、但馬山名氏一族の三上兵庫頭豊範を城主として迎えた。三上兵庫頭は二上山城の不便さをいとい、新たに道竹城を築いて移った。二上山城には番兵を置いたという。さらに降った天正年間になると、因幡経営の拠点は鳥取城に置かれることとなった。 1581年(天正9)羽柴秀吉による鳥取城攻略によって毛利氏勢力は因幡を去り、旧巨濃郡は垣屋光成が領することとなった。垣屋氏は浦富の桐山城を居城としたが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで垣屋恒総が西軍に与して滅ぶ。二上山城もこの頃に廃城になったと考えられる。近年の発掘調査では近世初頭のすり鉢片なども城趾から出土しており、元和の一国一城令まで城が存続していたと考えることもできる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二上山城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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