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五姓田芳柳 (2代目)[にせい ごせだ ほうりゅう] 二世 五姓田 芳柳(にせい ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日(1864年9月7日) - 昭和18年(1943年)1月9日)は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した洋画家。 == 伝記 == 下総国猿島郡沓掛村(現茨城県坂東市)で、大工倉持正重の六男として生まれる。本名は子之吉、通称は芳雄。幼少から画を好み、5,6歳の頃、麦の穂を一日中その場を動かず丹念に写生し、家の人が覗いてみると、色・形から粒の並びまで実物そっくりだったという〔「芳柳先生逸話」『二世五姓田芳柳展図録』 猿島町立資料館、1997年、p.15。〕。1878年(明治11年)上京、五姓田義松の画塾に入る〔義松の日記では「明治十三年四月二日に倉持子之吉弟子となる」とあり、正式に弟子となったのはこの時だと考えられる。〕。同年、工部美術学校教師アントニオ・フォンタネージに通い指導を受ける。1880年6月(明治13年)6月、初代五姓田芳柳の末娘とめと結婚、婿養子となり芳雄と称する。翌1881年(明治14年)家督を相続、五姓田家の戸主となる。前年に義松がパリに留学すると、かわりにチャールズ・ワーグマンから指導を受け、工部美術学校教師サンジョヴァンニに油彩画、カペレッティに遠近法を習う(正規に入学はしていない)。同じ明治14年の第2回内国勧業博覧会に、「飾鳥図」を出品している。1884年(明治17年)から1年ほど新潟県立新潟学校で図画教師として赴任、中学・師範・女子師範の三部を兼務する。教師を辞し帰郷後、芳柳号を継承する。芳柳は水彩画の草分け的な存在で、自身回想では明治10年代初めには既に水彩画を描いており、作品も1886年(明治19年)のものが残っている。 1889年(明治22年)義兄となる義松が帰国し、共に明治美術会創立に協力、創立会員となる。1890年(明治23年)第3回博覧会には「鷺沼平九郎大蛇を屠る図」「羅漢図」を出品し、褒状を受ける。以降は明治美術会や各国博覧会にも出品した。また、パノラマ画やジオラマをしばしば手がけ〔〔二世〕 五姓田芳柳 「パノラマ談」『エッチング』27・28号、日本エッチング研究所、1935年。後に青木茂編 『明治洋画史料 記録編』(中央公論美術出版、1986年12月10日、pp.286-291)や、図録(2014年)pp.163-165に再録。〕、この分野の第一人者といえる。1901年(明治34年)には北清事変の一場面をパノラマ化するため、北京、天津へ調査へ赴いた。同年明治美術会は解散するが、翌年の同会主流派が太平洋画会を結成するも芳柳は参加せず、川村清雄とその門下、石原白道らと巴会を結成する(1909年(明治42年)を最後に自然消滅)。1910年(明治43年)農商務省嘱託となり渡英、日英博覧会にジオラマ「日本古代より現代に至る風俗変遷図」9題(延長60間)を制作、名誉褒状を受ける。 文展開設後は作品を公表せず、種々の依嘱に応じて主として歴史画、風俗画を描くようになる。1917年(大正6年)明治神宮奉賛会嘱託となり、聖徳記念絵画館壁画下絵80題を制作〔林洋子 「明治神宮聖徳記念絵画館について 」『明治聖徳記念学会紀要』復刊第11号、1994年、PDF)。茨城県近代美術館に下絵が所蔵されている。〕。芳柳は日本赤十字社の特別社員を勤めており同社依嘱の作品も多く、1926年のフィラデルフィア万国博覧会に「関東大震災赤十字社救護活動図」を出品している。1931年(昭和6年)2-3月、上野公園内、美術協会にて個展(350点)を開いたのを期に引退、芳柳号を先代の霊前で返上する。淀橋区戸塚町(現新宿区)で病気のため逝去した。享年80。墓は港区白金三光町にある五姓田家の菩提寺・専心寺。戒名は、寿徳院柳誉哲翁居士。 弟子に『工藝百科大圖鑑』(芳柳が校閲)〔1936年12月から1938年4月刊。1977年に村田書店より全3巻で復刊。更に2005年4月に『諸国デザイン図鑑』の名で復刊(全2巻、青幻社、ISBN 978-4-86152-038-9、ISBN 978-4-86152-039-6)。〕の挿絵を描き、戦後は下妻町町長を務めた国府田範蔵や、徳永仁臣、鹿子木孟郎、満谷国四郎など。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五姓田芳柳 (2代目)」の詳細全文を読む
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